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3月24日主日礼拝説教要旨

2013-03-24

3月24日主日礼拝説教要旨
天野武男協力牧師
「救いの確信と十字架」
ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節

 皆さんは100%救われているという確信がありますか。ユニクロの衣類販売スーパーの就職面接試験のように、今日、キリストの衣を着ていますか。

 物にはすべて、作られた目的があります。私たちの人生の目的は何でしょうか。詩編8篇では、「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」と言っています。聖書は、「人間の第1の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすること」であると教えています。

 本日は、イースターの前の日曜礼拝、「棕櫚の主日礼拝」と言います。マルコ福音書11章に詳しく、イエス様がエルサレムに入城される様子が記録されています。「ホサナ、イエス様!」と叫んだ同じ人間が、「イエスを十字架につけろ!」と叫んだのです。5日後には「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(ヨハネ福音書19章19節)として十字架の上で殺されました。これは二千年前のエルサレムの出来事で、今日の私たちには関係ありませんか。文明の発達した21世紀の私たちには関係のない、外国の出来事でしょうか。

 今は亡き三浦綾子というクリスチャン作家の書いた小説「ひつじが丘」という本があります。主人公である牧師の一人娘、広野奈緒美とその結婚相手、杉原良一との葛藤が、愛に基づいた罪と赦し、和解がわかり易い文章で表現されています。奈緒美の父、広野耕介が牧師として良一の葬儀を執り行いました。その告別説教で三浦綾子さんは耕介にこう言わせています。「良一君は、血を流している十字架のイエス様を見て、あの姿は自分である、自分の罪を赦して欲しいと心からお願いしている自分は、代わりにイエス様があの十字架に上って血を流して苦しんでおられる、その十字架のイエス様で救われたと感じ取っていたのでしょう。『キリストよ。あなたを十字架につけたわたしをおゆるしください』と告白している姿であります。」(P.327)私たちは、クリスチャンとしてこの十字架を見上げるとき、そこに何を見ますか。私たちの罪の赦しのためのキリストの血潮を見る人は、「救い」の確信がある人ではないでしょうか。

 私の知り合いの中には、かけがえのないお連れ合いやお子さんを亡くされた方がいらっしゃいます。またご両親が先に旅立れた方もいらっしゃいます。お子さんを亡くされた方の悲しみ、痛みは、それが独り子であれば、なおさら寂しく、辛いことです。多分、独り子イエス様をこの地上に、私たちの救いのために送り出し、惨めな姿で十字架に架けられた天のお父さんの心は、どれほどの辛さ、悲しさ、寂しさであるかを、子どもを持つ親として、私たちは容易に理解できますね。天の父なる神様は、十字架と一緒にいてくださり、至上の愛、Greatest Love でもって、共に泣き、悲しみ、苦しんで憐れみのまなざしを向けていてくださるのではないでしょうか。

3月17日主日礼拝説教要旨

2013-03-17

3月17日主日礼拝説教要旨
杉山修一牧師
「福音の前進を」
フィリピの信徒への手紙1章12~21節

 評論家は、高い見識、広い視野、先のことを見通す洞察力などで、当面する諸課題に適切な分析を施し、解決への道筋を示してくれます。使徒パウロにはそのような優れた評論家的要素が備わっていますが、それだけではありません。パウロの手紙を注意深く読んで参りますと、いつも神様を介し、神様を間に置いてお礼の言葉を伝えたり、お願いの言葉を記していることに気づかされます。評論家とパウロの違いはその点です。パウロには神への祈り、神への願い、間に立っていてくださる神への信頼と期待と感謝があります。

 今、パウロはおそらくエフェソだろうと言われていますが、牢獄に囚われの身です。イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによってユダヤ人と対立し、異教徒たちからは社会の秩序を乱す者として迫害され、獄に捕らえられているのです。自由を奪われ、伝道もできない状況に置かれ、イライラしたり、不安に駆られたりしても不思議ではありません。ところがパウロは、自分の今置かれている苦しくつらい状況をしっかりと受けとめ、そのことの中に現れている神の恵みを力強く語っているのです。驚くべきことです。

 パウロは自分の身の上を案じているのではありません。「福音の前進」という言葉から伝わってくるように、パウロの視点は神の御業が崇められ、神の御業が推し進められていくことに注がれています。そして自分が獄に囚われるという逆境を通して、確実に福音が前進したことの兆候を、兵営全体にパウロのことが知れ渡ったことと、フィリピの信徒たちが勇気づけられたことの二点に見ています。キリストの福音を宣べ伝えるのに、不純な動機でする者もいます。そのような現実をも受けとめた上で、パウロは動機がどうあれ、結果的にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられていくならば、そのことを喜ぼうと語ります。福音が告げ知らされて救われる者が呼び起こされていくことによって、伝道者パウロの喜びは増し加わっていきます。

 パウロにとって「生きることはキリスト」です。それは、主イエス・キリストの神の国の福音を宣べ伝える姿と、十字架の受難と死と復活の出来事を見据えています。パウロにとって「死ぬことは利益」というのは、伝道者としての生涯が苦難の連続であることを示しています。迫害に遭い、苦しみを受け、飢えや乏しさにさいなまれ、大変な苦労を背負い込んで生きていたわけですけれども、死ぬことはそのような苦しみからの解放にもつながっているわけです。そのようにパウロは、福音の前進をいつも前面に打ち出して、神様のお支え、聖霊の助け導きを仰ぎ求めながら、伝道者としての生涯を歩んでいるのです。そのような伝道者、信仰者の生き方が教会を支え、教会の歴史を刻んできたように思います。所沢教会の歩みの上にもそのようなパウロの祈りが刻み込まれていることを思って、神様に感謝したいのです。

3月10日主日礼拝説教要旨

2013-03-10

3月10日主日礼拝説教要旨
杉山修一牧師
「愛する兄弟として受け入れる」
フィレモンへの手紙8~20節

 2011年3月11日に起こった東日本大震災から2周年を迎えました。私たち北関東に住んでいる者にとっては、仮設住宅が建ち、食料が行き渡り、生き延びていくことが不安視されるような状況を脱したように思われて、どこかホッとしたようなところがありますが、被災された当事者の方々には、まだまだ越えなければならない山がいくつもあるのだ、ということを改めて教えられています。「復興」という言葉は頼もしい言葉ですが、家族の絆を断たれ、地域の人間関係が寸断され、家を流され、仕事を失った人たちにとっては、気安い言葉ではありません。加えて、福島第一原発事故は「復興」の字に重い枷をはめてしまったようにも思われてなりません。

 今朝のテキストの「フィレモンへの手紙」は、パウロの書いた短い私信です。コロサイ教会と同一かどうかはっきりしませんが、コロサイにあるフィレモンの家でも集会が開かれていました。そのフィレモンの家の奴隷・オネシモが、逃げ出したのです。そして、エフェソで獄に囚われているパウロと出会い、パウロの感化を受けてオネシモはクリスチャンとなったのです。オネシモがフィレモンの家の逃亡奴隷であることを知ったパウロは、フィレモンは自分が信仰に導いた人物であることを伝えます。

 オネシモから事情を聞いたパウロは、オネシモを説得し、オネシモの同意を得て、オネシモをフィレモンの元に送り帰すことにしました。そのための送り状がこの手紙です。パウロはオネシモにこの送り状を持たせて、オネシモをフィレモンの元に帰してあげたのです。それが、獄に囚われ、自由のないパウロにできる精いっぱいのことでした。パウロは「わたしの子オネシモ」「わたしの心であるオネシモ」と、温かい賛辞の言葉を添えてくれています。逃亡奴隷は、その主人によってどんなひどい仕打ちを受けても仕方がない立場に置かれていました。

 パウロは、フィレモンの霊的導き手として命じているのではありません。あくまでもフィレモンの自主性に委ねながら、オネシモを奴隷としてではなく、愛する兄弟として迎え入れてほしい、と穏便な処置を求めています。更に、もしオネシモがフィレモンに損害を与えたり、負債を負っていたりしたら、それを自分の借りにしておいてください、とまで断言しています。このパウロの言葉の背後には、イエス・キリストの贖いの出来事がありました。私たちは、主の御心を知り、主の御心を生きることによって喜びを与えられ、元気をいただいていくのです。私たちは、被災地のことを覚えて祈ります。被災された方々にいろいろな形で交わりの手を差し伸べ、交わりの絆をつむいで参ります。切れそうになった糸をもう一度つなぎ直して、お互いに支え合って生かされている者同士であることを、見ていきたいのです。

3月 3日主日礼拝説教要旨

2013-03-03

3月 3日主日礼拝説教要旨
杉山いずみ神学生
「主が喜びとなる」
イザヤ書58章6~11節

 2月13日の水曜日からレント(受難節)が始まりました。レントとはイエス様が十字架に架けられ、復活された日までの日曜日を抜いた40日間のことです。キリスト教では4世紀頃からこの期間にイエス様の苦難を覚えて断食が行われてきました。初代教会では罪の赦しや、苦難からの救いを祈る行為として断食が行われていました。今日はイザヤ書58章3節から14節に聴きながら、主の選ばれる断食について考えたいと思います。

 「なぜあなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」と嘆く民に対して、神様が「おまえたちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない」と言われています。主は、断食という行為自体を批判しているのではありません。神様に罪の赦しや苦難からの救いを祈りながら、争いや口論、暴力を止めずに行っている断食が批判されているのです。そして、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか」と6節から神様の望まれる行いについて語られます。苦しみの内にある人を解放すること、飢えた人に“あなたのパンを”裂き与え、とあります。断食をして自分が食べないということよりも、飢えている人と食べる物を分け合うようにと言われています。そして、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に衣を着せかけ、兄弟姉妹に助けを惜しまないこと、と徹底的に隣人愛、同胞への愛が求められています。また、苦しみの内にある人を助けるだけでなく、あなたの内にある「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくこと」を取り去り、「飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たす」ようにと言われています。

 そのように隣人愛、同胞愛を示していくことで、「あなたの傷は速やかにいやされる」「あなたを包む闇は、真昼のようになる」と言われています。断食という自分を苦しめる苦行の行いによってではなく、苦しむ人に寄り添い、助けることで、あなたの傷が癒され、闇の中に光が輝き、あなたを包む闇は真昼のようになる、というのです。安息日(主の日)についても苦行をするように教会に来るのではなく、この日を喜びの日として礼拝を守っていくこと、また自分の行いに集中するのではなく、隣人の苦しみに目を向け、寄り添うことが求められています。そうすることで、神様の光がわたしたちを包んでいる暗闇を光に変えてくださるというのです。

 わたしたちは自分の行いに夢中になって隣人の苦しみに気づかないということはないでしょうか。自分の苦しみ、自分の行い、自分の楽しみに夢中になっているうちに、暗闇に覆われていて、気がついたら光を見失ってしまっていることがないでしょうか。 社会の深い闇を知って気持ちが重くなることが多くありますが、主の光が闇を払ってくださるように、隣人、また同胞と関わりを続けていきたいと思います。主の選ばれる断食に生き、安息日にしたいことをするのをやめ、安息日を喜びの日と呼ぶならば、わたしたちは主を喜びとして、光に包まれた歩みをすることができるのです。

2月24日主日礼拝説教要旨

2013-02-24

2月24日主日礼拝説教要旨 杉山修一牧師
「賜物は活用を」
マタイによる福音書25章14~30節

 先週は、北関東地方連合・伝道委員会のプログラムの「相互訪問」で、前橋教会から奥田 稔牧師以下11人の方々が来られて、一緒に礼拝を守りました。礼拝の中で、ハンドベルクワイヤーの方々がきれいなハンドベル演奏をしてくださり、豊かな礼拝をお献げすることができました。もし、前橋教会の方々が、ハンドベルを持って所沢教会まで出かけるのはたいへんだ、誰かが急に風邪でも引いて来られなくなったら、ハンドベルの演奏はガタガタになってしまう、そんなことを考えてあまり無理をしないでおこうと思ったら、私たちはきれいなハンドベルの音色を聞くことはできませんでした。

 今日の聖書のテキストでは、タラントンのたとえ話が出てきます。大金持ちの主人が旅に出るにあたって、三人の僕たちに、それぞれの力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンという大金を預けます。1タラントンは6000日分の日当に相当します。主人はお金を渡すときに、「これで商売をして儲けなさい」と言ったかどうかははっきりしません。主人はおそらく商人で、僕たちは大番頭、番頭、見習いのような立場で、普段から商売を手がけていたようです。そこで二人は預けられたお金を元手に商売を始め、大儲けをしました。残りの一人は慎重派で、預けられたお金を地面に掘った穴の中に隠しておき、泥棒に盗まれないように心掛けました。

 主人が帰って来て、清算を始めます。商売をして大儲けした二人は主人からほめられ、もっと大事な仕事を任せられるようになりました。地中にお金を隠しておいた僕は、預けられていたお金をすべて取り返されてしまいました。このたとえを、前橋教会のハンドベルを演奏してくださった人たちとダブらせてみると、前橋教会の人たちは、商売をして大儲けをした僕たちと重なって見えるように思います。

 前橋教会の人たちは出し惜しみをしませんでした。快く所沢教会で出張演奏をしてくださいました。相互訪問のプログラムは謝礼なしですので、財布の中身はちっとも増えていません。でも、前橋教会の人たちも、所沢教会の人たちも、とってもリッチな気分になりました。心が温かくなり、穏やかになり、恵まれた気持ちになりました。それは、一緒に神様を讃美し礼拝するということが、どんなに嬉しく、喜ばしいことであるかということが分かったからです。自分たちが神様からいただいているものの中で一番いいものを神様にお献げすることで、神様から喜んでいただくことができました。そのことは、私たちにとっても大きな喜びであり、恵みであることが分かりました。神様の御心を知り、神様の御心に触れ、そしてお互いに愛し合うようになっていく、そのことに勝る喜び、恵みはありません。私たちは交わりの中に祝福をいただいていくのです。そうして私たちは大儲けをするのです。

2月17日主日礼拝説教要旨

2013-02-17

2月17日主日礼拝説教要旨
前橋教会・奥田 稔牧師
「キリストの体を立てる」
コリントの信徒への手紙一12章12~27節

 大河ドラマ「八重の桜」が放映されていますが、主人公の八重は後年、群馬県安中市出身のキリスト者、同志社大学の創立者の新島 襄と結婚しました。この新島襄が創立当初、学内学生の学年取扱いを明確にしていなかったことが原因で騒動が起こりました。この解決に苦心した彼は、聖書を読み、祈り、神に導かれて学生に対応しました。そして、全学生の前で、自分のいたらなさを謝罪し、その罪の罰として、ムチを振り上げて、自分の左手を打ち続けました。その時、学生たちが、「もうやめてください」と制止し、自分たちも悪かったと進み出、和解が成立しました。これは私たちの教会の交わりでも大切なことを教えてくれています。それは兄弟の罪を指摘する前に、まず、自分を省み、自分のなすべきことを神の前に行うことです。

 私たちの教会は、主イエス・キリストご自身がこの地上に建てられ、御子の血によってあがない取られたものです。また「呼び出された者の集まり」です。ですから、私たちは、この世のあらゆる権威を退け、頭である主のみ言葉に従って生きることが必要です。心しなければならないことは、現実の私たちの教会は決して完成されたものではないということです。ですから、互いにゆるし合いや変革への忍耐が常に必要なのです。それでは、そのような教会になるために何が必要でしょうか。パウロはコリント教会に宛てた手紙で、大切な三つ点を私たちに教えてくれているのです。それは
 ①一つの体には多くの部分があることを意識すること(14~21節)が大切であるということ。違った働き、考え方、賜物を認めること。異質なものを認め、尊重すること。他者感覚の欠如は、私たちの教会の大きな課題なのです。

 ②体には強い者と弱い者のがあることを意識すること(22~25節)が大切であるということ。いつも、弱い者や破れと思われる状況が尊重されるところに教会が形成されていくのです。神が与える賜物とは、弱さや破れを支える器として遣わされるところに、教会が形成されていくのです。

 ③体は悩みと喜びとを共にすることを意識すること(26節)が大切であるということです。「一人が苦しめば、すべてが苦しみ」、「一人が尊ばれれば、すべての仲間が共に喜ぶ」という教会を目指すのです。

 教会はこのようにしてキリストの霊の働きによって導かれ、生かされる霊の共同体です。教会を教会たらしめるものは、キリストを主とし、キリストにあって共に生きようとする志です。その志のあるところに、教会は立てられるのです。

2月10日主日礼拝説教要旨

2013-02-10

2月10日主日礼拝説教要旨
天野武男協力牧師
「『種蒔く人』とは誰?」
マタイによる福音書13章1~9節

 「種」とは、あとの19節から「御国の言葉」、神の言葉、救いの言葉であると分かります。この「御国の言葉」という種を蒔く人とは、イエス様だと見ることができるでしょう。当時の種蒔きは、今のように、耕して畝(うね)を作り、肥料を施してかんがい用水から水を引いてくるというわけではありません。種をつかんで畑に適当にばらまくだけです。人に踏み固められた堅い通り道になっている畑の端に落ちた種は、鳥に食べられてしまう、つまり、人が御国の話を聞いても、心の中に取り込まなければ、なにも残りません。

 石や砂地に蒔かれた種は水分がないので根が出ても枯れてしまう、言わば、ちょっとした困難に合うとすぐにあきらめてしまう信仰です。いばらの中に落ちた種は、いばらの生命力に負けてしまう、というのは、なにかの心配事や富の誘惑で頭がいっぱいになり、信仰を捨ててしまいます。しかし、良い土地に蒔かれた種は、天の国の話を聞いてイエス様に出会い、信仰を受け入れて、新しい人生を歩む人のことであると言えるでしょう。

 どうしてイエス様は、たとえを使ってお話されたのでしょうか。ここでは、二種類の人が区別されています。一つは、弟子たちとイエス様のたとえを聞く大勢の群衆、この人たちは天の国の秘密を悟ることが許されており、もう一つ、「あの人たち」とは13節の「彼ら」、つまり、「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と言われる人たちです。天の国の言葉をたとえとして聞く人たちの姿勢、態度を言っています。融通の利かない杓子定規のような気持ちで十戒を守ろうとする信仰、素直な従う心で御言葉を聴こうとしない人々のような態度のことです。ファリサイ派や律法学者たちなど「あの人たち」とは、今日の私たちの姿でもあると言えるのではないでしょうか。日々の信仰生活において、「奇跡」を見ないと信じることはできないとか、大胆に御言葉を伝えることができないとか、ほかの用事を大切にして礼拝に出なかったり、などなど、つまずくことが多いのではないでしょうか。

 私たちがよく見て、しっかりと聞くこととは、100倍の実りと、神の恵みによって、良い土地に蒔かれた種とされているという神からの語りかけを素直に聞くことでしょう。良い土地であっても、世の中の悩み、苦しみがなくなるわけではありません。この世における病いや金銭や肉の誘惑は消えてなくならないでしょう。その時私たちは、どのように実を結ぶのでしょうか。私たちはよい土地であり、神によって蒔かれた種です。だからこそ、その実りを信じて行くことが求められているのではないでしょうか。イエス様は私たちに語りかけています、「あなたがたは良い土地に蒔かれた種のような生き方をすることで、神は100倍もの豊かな実りをもたらしてくださるのである。」

2月 3日主日礼拝説教要旨

2013-02-03

 2月 3日主日礼拝説教要旨 杉山修一牧師
 「天の父の御心を行う人に」
 マタイによる福音書7章21~23節

 人生には、自分の思い通りにならないことがたくさんあります。そういう意味で、私たちは不自由さの中に生きています。神様のお支えをいただき、助け導きをいただかなければ、私たちは道に迷ってしまいます。私たちが完全な自由をいただけるのは、世の終わりの時、終末の時です。ヨハネの黙示録21章3~4節にあるように、神様が私たちの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださり、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」という状態になって、つまり、永遠の命をいただいて、ようやく完全な自由が与えられたと言えるのです。

 それまでは、私たちはこの世の生を生きていくのに、神様のお支えをいただかなければなりません。御霊の助け導きを仰がなければなりません。今日の聖書の個所で、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われています。短い言葉ですが、たいへん厳しい言葉です。天の国に入るのは、天の父なる神の御心を行う者だけです。それを聞いた人たちは、口々に「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行いました」と訴えています。これらは皆、素晴らしい行為です。強い信仰がなければできない事柄です。

 でもイエス様はその人たちに向かって、「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言うであろう、とおっしゃっておられます。このイエス様から拒絶された人たちは、熱心に伝道に励み、神様のために働いてきた人たちではなかったでしょうか。その人たちがイエス様から受け入れられないとは、悲劇です。いったい、どこで行き違いが起こってしまったのでしょうか。そのため、「神様の御心を行う」ということがどういうことなのかということを、もう一度考えてみたいのです。

 「主の祈り」の中に、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがあります。この祈りの言葉から分かることは、神様の御心は天においても地においても、神様がなされることだ、ということです。地上において私たちが神様の御心を行っているように見えても、実は聖霊が私たちに働きかけて出来事を引き起こしてくださっているのだ、ということです。ここで主に反論を試みている人たちは、信仰の慎みを見失い、成果主義に陥っているように思われるのです。フィリピ書3章12~16節でパウロは、自分が既にキリストを捕らえている、信仰の核心を捕らえているというのではなく、逆に自分の方がキリストに捕らえられている、と受身形で語っています。そのようなところで、神様は救いの出来事を引き起こしてくださっておられるように思うのです。

1月27日主日礼拝説教要旨

2013-01-27

1月27日主日礼拝説教要旨
杉山修一牧師
「空の鳥、野の花を見よ」
マタイによる福音書6章25~34節

 小鳥はみんな「その日暮らし」です。エサをお腹いっぱい食べると、他の所に飛び立って行きます。食べ切れない分をせっせと集めているような鳥は、見たことがありません。鳥たちは、何の蓄えもなしに、毎日あちこち飛び回ってエサを探しています。その鳥たちを養ってくださっているのは、天の父なる神様です。鳥たちはそのようなことは何も知りません。あなたがたはその鳥たちに比べ、もっともっと大切な存在ではないか。だから、何を食べようかと思い悩むな、と告げられています。

 不景気な競争社会の中で、派遣という不安定な雇用形態のもとに、不安を抱きながら働いている人たちがたくさんいます。私たちはそのような人に、イエス様がこう言っているのだから、聖書にこう書いてあるのだから思い悩むことはありません、安心しなさい、と軽々しく言うことはできません。このことは、私たちが押し付けることでもなければ、押し付けできるようなことでもありません。この言葉は、主を信じる一人一人に向けられています。又聞きではなく、主イエスから直接私に語りかけられている言葉として、聞いて参ります。そうして、主イエスにお従いしていく中で、神の配慮、執り成し、計らいを感じ、神の御心に触れさせられて参ります。そのような神様との出会いと交わりの場へと、私たちは招かれているのです。

 主イエスは、ソロモンの栄華に比べ、質素でつつましやかな野の花の方が美しさでは勝っている、と言われます。この主イエスの言葉は私たちの常識を超えています。しかし、創造主の見方は異なります。創造の目的に適っているかどうかが、神の判断基準ではないでしょうか。神の創造の御業は、全体のバランス、調和が押さえられているように思います。生物はお互いに関係を持ちながら、影響を及ぼし合いながら、支え合って生きています。そういう「生態系」という仕組みを神様は造ってくださいました。そのような交わりの中にあるとき、そういう関係性の中に置かれたとき、花であれ、植物であれ、動物であれ、人間であれ、生き生きと輝いて見えるのではないでしょうか。それが、神様が一つ一つの存在に与えてくださった「装い」です。

 そのような交わりの中に生きる者に求められているのは、何よりもまず神の国と神の義を求めるということです。それは、主イエスが教えてくださった主の祈りの「御心が天において行われるように、この地においても行われますように」という祈りとつながっているように思うのです。私たちがこの地上に生きている限り、苦労がなくなることはありません。でも、その苦労は今日一日分の苦労でしかないことを、主は告げてくださっています。明日の苦労を、取り越し苦労することはありません。そのような生の営みを通して私たちの命は支えられ、信仰は強められ、育てられて参ります。

1月20日主日礼拝説教要旨

2013-01-20

1月20日主日礼拝説教要旨
天野武男協力牧師
「クリスチャンにとって必要なものは何?」
マタイによる福音書6章1~15節

 この聖書個所は「主の祈り」と言われていますが、イエス様は一度も罪を犯したことはないので、「わたしたちの負い目を赦してください」には少し違和感があります。正確には、「弟子たちによる主への祈り」でしょう。天の父に祈り、親しみを込めて、「アッバ、父よ」または「天にいる父ちゃん」という呼びかけで始めます。「祈り」とは、神様との対話、ダイアログです。ですから、十字架の縦棒は神様と私との関係を、横棒は愛する兄弟姉妹との交わりの関係を表しています。「主の祈り」とは、私たちが毎日成長し、信頼で委ねていく、生ける神との関係に基づいた祈りではないでしょうか。

 「主の祈り」の前半にある三つのポイントは、神の栄光に焦点を当てています。ジョン・カルヴァンは、キリスト者の目的は、神の栄光を現すことにあり、伝道や社会奉仕、人間活動のすべては、主権を持つ三位一体の神に栄光を帰するためにある、と言っています。アッバは、聖なる神、私たちの創造主への呼びかけです。「御名を崇める」とは、崇拝と尊敬をこめて祈りを始めることです。「御国が来ますように」とは、御国が空とかあの世ではなくて、人生において、神の御心が全てにおいて中心となる生活をできるということでしょう。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあるように、この福音を信じた心こそが今ある天国ではないでしょうか。一方、神の右の座に着かれた天から主イエス・キリストがもう一度来てくださるときこそ、神の御国が実現するときでもあるでしょう。

 後半の祈りは、生活に必要なものへ焦点を当てています。「日用の糧」を求めることは、私たちと共に神が一緒にいてくださるようにと願うことではないでしょうか。神はその日のパンを用意して私たちに差し出してくださるから、神に向かってその日のパンを求めて手を差し出すということです。隠されているもう一つの意味は、私たちに今日も明日も明後日も、続けてパンをくださいと祈る、つまり、私たちの礼拝や讃美、献金も続けて神さまに献げることを意味しています。「わたしたちの負い目を赦してください」とは、私たちの「原罪」を赦してくださいというよりも、私たちの罪のために十字架に上られたイエス様が、もう一度その血潮を流してくださったので、私たちは赦されています。今ここで祈る赦しとは、「イエス様が赦したことで私たちも赦されている。今度は私が赦すのだ、現在や過去の私の罪、未来の罪をも赦してください」とお願いする祈りではないでしょうか。三つ目は、「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」とあります。私たちは、いつ、どのようなことで罪に陥るかもしれません、いつも神経を鋭くしておくこと、知らないうちに罪を犯すことや罪を犯しやすい事柄や欲望を避けることができるように、神に願っていなさいと言うことでしょう。

 私たちキリスト者にとって、この『主の祈り』は魂の呼吸です。使徒言行録9章5~6節を欽定訳聖書(英国聖公会の標準訳)で見ると、パウロの言葉は、「主よ、あなたは一体どなたですか」「主よ、あなたは一体私にどうしてほしいのですか」の二つです。私たちは、いつも「私のなすべきことは何でしょうか」を、「アーメン」と終わる前に沈黙して神の御言葉を聞くことが求められているのでしょう。

1月13日主日礼拝説教要旨

2013-01-13

1月13日主日礼拝説教要旨
神戸バプテスト教会・坂本献 牧師
「光あり」
マタイによる福音書5章13~16節

 本日は礼拝説教者としてお招きいただき、心より感謝申し上げます。会堂いっぱいの方々が集い、皆さまとの出会いと、共なる礼拝をできたことを嬉しく思います。とても教会の活力を感じました。

 さて、本日の説教テキストはいわゆる「山上の説教」と呼ばれるイエス様の説教から「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」という個所です。

 塩、それは後の光と対比されますが、塩は目立ち過ぎてはいけません。見えるように入っているとそれは「しょっぱい、こんなもの食べられるか!」ということになります。しかし良い塩梅の味が作用すると、全体が整います。人間関係の社会の関係の中に生きる中で全体を「良きもの」としてまとめ、平和が響きます。「塩辛い」言葉ばかりを聴いてきた人は耳を塞ぐか、それ以上の強い塩味の言葉で返すことになりますが、そこに平和は生まれません。

 光は逆に目立つものです。光により他者の表情が見え、また、失ったように思える事柄を見出すことになるのです。創世記1章で神が「光あれ」と語ると、その言葉に応答して光がうまれました。しかし、人間の欲望の光や、自己中心的な光、人工の光が、「命の光」を隠し、今、逆に「闇の時代」となったのです。それゆえに主イエス・キリストはこの世界へまことの光を持って、私ども、悲しみや痛み、病や涙の流れるこの世界にやってきてくださったのです。

 そしてイエス様のまなざしは、私たちを「地の塩」「世の光」として見てくださいます。大事なのは、私たち自身が光そのものではないということです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ福音書8章12節)とあるように、イエス様の光をいただき、イエス様の光を受け、応答する者としてくださっているのです。

 そのためには共にいると約束されているイエスを見つめること、イエス様の言葉に耳を傾ける時、そこにおいて私たち自身が「地の塩、世の光」としての自己理解を持った歩みが生まれるのです。それは命令ではなく、目標ではなく、義務でもなく、闇を抱えた、私たち自身をイエス様が「生きよ」と肯定し、力づけ、励ましてくださる時、神様の前に歩む新たな自分自身の姿が見えてくるのです。
 
 でも時に、イエス様の光を見出せない時があります。塩がその味を失い、光を升の下に隠してしまうような時が。そのような自分に気づく時、幸いです。自らの闇の中でこそ、闇の中で苦しむ時にこそ、イエス様の光が見える時を祈り待ちましょう。そして互いに主から与えられているそれぞれの光を喜び分かち合う教会、「光あり」というその方をこの地に、この世に、指し示す教会として、主のまなざしの中で共に歩んでいきましょう。

1月 6日主日礼拝説教要旨

2013-01-06

1月 6日主日礼拝説教要旨 杉山修一牧師
「悪魔の誘惑」
マタイによる福音書4章1~11節

 どうしてこの世に悪が存在するのか、という問いは、たいへん難しい問題です。聖書には、神様の御心に適った人がすべて悩みや苦しみがなくなって幸せな生涯を送りました、といった話はほとんど出てきません。皆、多かれ少なかれ苦しみや悲しみを負い、この先どうなるのかといった不安にさらされ、試練を耐え忍んで生きています。中には殉教を遂げる信仰者たちも出てきます。詩編には、そのような苦しみ、悩みにあえぎ、神の助けを求める信仰者の叫びや祈りがたくさん出てきます。聖書の信仰、キリスト教信仰は、そういうところで神様の御心を教え示されていくのではなかったでしょうか。

 ヨハネからバプテスマを受けられた主イエスは、悪魔から誘惑を受けるために、聖霊に導かれて荒れ野に行かれました。主イエスは断食をされ、ひたすら神様に心を向けて祈られました。この時は、悪魔は何もしていません。40日間の断食が終わった後、悪魔は主イエスに近づき、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」とささやきます。主は御自分の空腹を満たすための奇跡はきっぱりとお断りになっておられます。そして、荒れ野でイスラエルの民が飢えた時、天からのマナで養われたことを引用し、申命記8章3節の「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉を引いてきて答えておられます。

 二つ目の誘惑は、主イエスを神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」、お前が神の子なら、お前の足が石に当たらないように、天使たちが手でお前を支えてくれるはずだ、とけしかけているのです。主イエスは数々の奇跡を行われましたが、これ見よがしに人に見せつけるような形の奇跡はありません。主はこの二つ目の誘惑に対しても、「あなたの神である主を試してはならない」と、申命記6章16節の言葉で退けておられます。

 三つ目の誘惑は、高い山から地上の繁栄を見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」という、たいへんスケールの大きい誘惑です。私たちはこのような誘惑に弱いのです。競争に打ち勝ち、他よりも多くの恵みを手にしないことには満足できません。そして、知らず知らずのうちに崖っぷちに立たされ、崖から転げ落ちる失態を繰り返してきたのではないでしょうか。主イエスはここでも、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と、申命記6章13節の御言葉を用いて神信頼に踏みとどまり、誘惑を退けておられます。主イエスが悪魔の誘惑にあわれたということは、神の御子が一人の人間として、私たちと同じ状態に降りて来てくださったということを物語ることでもあります。そして、そのような悪魔の誘惑を、主は一つ一つ御言葉で切り返し、退けておられるのです。ヘブライ書5章7~10節の御言葉をお読みして終わります。

12月30日主日礼拝説教要旨

2012-12-30

12月30日主日礼拝説教要旨
杉山修一牧師

「主イエスのバプテスマ」 マタイによる福音書3章13~17節

 四つの福音書の主人公は、イエス・キリストです。四福音書とも、書かれていることの大半は、3年余りに及んだ主イエスの公生涯です。その中でも、受難物語が中心的な要素を占めています。そして、十字架上で死に、三日目に復活されたナザレのイエスこそ、神の御子・メシアであることを証ししてやみません。すべてはそこに集中するような書き方です。主イエスがイスラエルの民に待望されたメシアその人であることを証しするため書かれた証言集が、福音書なのです。ですから福音書は、普通の伝記とはだいぶ趣が異なっているのです。

 主イエスの子ども時代のことはほとんど何も書かれておりません。ということは、主イエスは生き神様のように囲い込まれた特別の環境で育てられたのではなく、ごくごくふつうの家庭で、庶民の交わりの中でお育ちになられた、ということです。それが、神の独り子が一人の人間となられたことの意味です。フィリピ書2章6~7節にありますように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました」という神のへりくだり、謙卑です。(ヘブライ人への手紙4章14~16節参照)。

 さて、主イエスと親戚関係にあったヨハネが、荒れ野で悔い改めの福音を宣べ伝え始めたことに呼応して、主イエスはヨハネのもとにやって来て、人々と一緒にバプテスマをお受けになられました。初めヨハネは、主イエスにバプテスマを授けることを躊躇していました。ヨハネは、主イエスがメシアであることを、いつのころかは分かりませんが、父ザカリアと母エリサベトから告げられたはずです。そして、自分の働きも、主イエスがメシアとしての働きを始めるための道備えと理解していました。ですから、自分の方こそ主イエスからバプテスマを受けるべきなのに、どうしてあなたは私からバプテスマを受けようとされるのですか、と問いかけています。それに対し主は、「今は止めないでほしい。正しいことを行うのは、我々にふさわしいことです」とお答えになっておられます。

 ヨハネは人間的な論理で、メシアが自分からバプテスマを受けることの理不尽さを指摘していますが、主イエスは神の論理、神の御計画から「正しさ」を取り上げておられるように思うのです。一人の人間となられた神の謙遜が、主イエスのバプテスマにつながっているように思われます。それが、神の御心に仕える二人にとって「正しいこと」なのではないでしょうか。バプテスマを受けられた主が水の中から上がられると、天が開け、神の霊が鳩のように主イエスの上に降って来ました。そして、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえてきました。神は主イエスが神の御意志を体現するお方であることを、告知してくださっておられるのです。

12月23日主日礼拝説教要旨

2012-12-23

12月23日主日礼拝説教要旨
杉山修一牧師

「別の道を通って帰る」 マタイによる福音書2章1~12節

 王家に王子が誕生すると、国を挙げてお祝いします。でも、イエス様の誕生の時は、そのような騒ぎは起こりませんでした。全く何事も起こらなかったかといえば、そうではありません。ただ、メシアの誕生を告げられた人、メシアの誕生に気付いた人は、ごくごく一握りの人たちだけでした。羊の番をしながら野宿していて天使からそのことを告げられた羊飼いたちと、星の観測をしていた東方の国の占星術の学者たちです。天使からメシアの誕生を告げられた羊飼いたちは、早速、生まれたばかりの赤ちゃんを探しに出かけ、飼い葉桶の中に寝かせてある赤ちゃんを見つけました。天使が告げてくれたとおりだったので、羊飼いたちはそのことを人々に告げ知らせました。ところが人々は聞き流すだけで、だれも信じてはくれませんでした。

 一方、東の方からやって来た星占いの学者たちは、最初、ヘロデ大王のいる王宮に行きました。てっきり、ヘロデ王家に王子が生まれたと思い込んだからです。新しい王が誕生したという話を聞いたヘロデは、内心穏やかではありません。自分の地位を脅かす存在の出現に、危機感を募らせます。そこで民の祭司長や律法学者たちを呼び集め、メシアがどこに生まれるかを調べさせました。そして、その場所がベツレヘムであると分かると、少しほっとしたようです。それは、そこがエルサレムのすぐ近くの町だったからです。

 ヘロデは星占いの学者たちを呼んで、いつその星が現れたかを確認し、自分も拝みに行きたいので、その子が見つかったらぜひ知らせてほしいと頼み込んでいます。ヘロデの本心は、その赤ちゃんを探し出して、すぐにでも殺してしまおうということでしたが、ヘロデは平気で嘘をついています。星に導かれて幼子を探し当てた学者たちは、それぞれ持ってきた黄金、乳香、没薬をお献げし、喜びにあふれて幼子を拝みました。三人は、元来た道を引き返し、エルサレムのヘロデにこのことを報告しようと思っていました。ところが、夢で「ヘロデのところへ帰るな」というお告げを受けたので、三人の学者たちは別の道を通って自分たちの国に帰って行きました。

 王様や国が決めたことは、すべて正しいというわけではありません。初めは良いこと、正しいことと思えたことでも、時間が経つと、初めの計画が間違っていたとか、たいへん大きなリスクを負っているとかがだんだん分かってくることがあります。そんな時、私たちは、勇気をもって別の道を選び取っていかなければなりません。人間の知恵は万能ではありません。神様の知恵の前に、私たちは自らの限界をわきまえる謙虚さを見失ってはならないと思います。三人の学者たちは、学者としての良心を見失うことなく、科学主義のおごりに陥りませんでした。この、神の啓示を受けて別の道を選び取る学者たちの謙虚な姿勢に、私たちはもっと学ぶ必要があるように思います。

12月16日主日礼拝説教要旨

2012-12-16

天野武男協力牧師

「人生の主人公はだれですか?」 マタイによる福音書1章18~25節

1.初めに:マタイによるイエス誕生物語
 徴税人マタイ(意味は「神の賜物」)は、ユダヤ人を対象としてこの福音書を記録したと言われる。イエスは「いと小さきものから生まれる」という預言を正当なるものとして、系図から書き始めたのであろう。聖書66巻には、多くの不思議な、また考えさせる疑問が多く記されている。その中の最たるものの一つが、イエスの誕生物語であろう。

2.ヨセフの受け止め方
 多くの日本人にとって、イエスがおとめから生まれるということが大きな躓きとなっている。ヨセフの悩みもそこにあったのではないだろうか。「ひそかに縁を切ろうと決心した」(1章19節)ヨセフ。婚約解消であれば、世間に知られてマリアは、当時の習慣である「石打ちの刑」にされるであろう。もしもそのまま結婚すると、律法に外れる行いとなってしまう。どちらを選んでも大問題で、悩むヨセフにマタイはスポットライトを当てて、この場面の主人公として描いている。
 注意して読むと、マタイによる系図には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻バト・シェバ、マリアの5人の女性が載っている。この5人は、イスラエルにとって恥となる出来事に深く関係している。しかし、マタイは神の計り知れない計画を人々に知らせて、救い主の誕生を伝えたいと思ったのであろう。おとめマリアからのイエス誕生も、その神の御業の一つであると言いたいのである。全ての人にとっての救い主が誕生したことを明らかにしているのではないだろうか。

3.ヨセフの決断
 ヨセフは天使の言葉を信じて、「その子をイエスと名付けた」「どうしたらよいか」という恐れや戸惑いは消えた。御心にすべてを委ねたということである。なぜなら、「この子は自分の民を罪から救うからである。」そのイエスとは、「その名はインマヌエルと呼ばれる」「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」イエスの誕生前から復活の後まで、私たちの救い主はインマヌエル、すなわち「神は私たちと共におられる」のである。

4.人生への適用   
 原作を書くのは創造主なる神、配役を決めるのも神、演出し監督するのも神である。それを演ずる役者は私たちひとりひとりであると思う。私たちはあくまでも賜物の管理者であり、賜物を扱う道具、器に過ぎない存在ではないだろうか。神は私たち一人一人を「神と共にいてくださる」存在として創造された。そうであるならば、私たちは、「行って、すべての民をわたしの弟子にし、父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、命じておいたことをすべて守るように教え」ることこそ、私たちの使命であり、舞台の上で主人公を演じるのは私たちではないだろうか。「インマヌエル」の神が私たちにいっしょに付き添っていてくださることを堅く確信することが、クリスチャンの信仰ではないだろうか。

12月 9日主日礼拝説教要旨

2012-12-09

12月 9日主日礼拝説教要旨
杉山修一牧師

 「復活の主からの大宣教命令」
マタイによる福音書28章16~20節

 どうしてアドヴェントに、復活の主からの大宣教命令を読むのでしょうか。キーワードは「世の終わり」です。聖書は、この世の時間には「初め」と「終わり」があることを語ります。この世の歴史は、未来永劫まで延々と続くのではありません。聖書が語っているのは、終末時における体のよみがえりです。しかも霊の体によみがえる、ということです。それがどのようなものなのかは、あいまいな形でしか示されていません。おそらく世の終わりまで、それはよく分からないまま留保されていくのだろうと思います。

 先週の子どもたちの「礼拝ノート」の中に、「どうして私たちには神様が見えないのですか」という質問が書かれていました。とても大事なポイントです。創世記の天地創造物語を見ると、原初の人間はエデンの園で神様と一緒に暮らしていました。しかし、蛇に誘惑されて、禁じられていた園の中央に生えていた木の実を取って食べてしまったために、神様の怒りを買って、エデンの園から追放されてしまいました。それが罪の始まりで、その時から人間は神様を見ることができなくなってしまったのです。

 しかし、神様は人間を見放されたわけではありません。アブラハムに始まるイスラエルの民を起こし、イスラエルを通して神様を見失った人間がもう一度神様に立ち帰るように、働きかけてくださいました。イスラエルの歴史は、そのような神様の憐れみに彩られた歴史です。しかし、イスラエルはかたくなで、神様の御心を受け入れようとはしませんでした。そこで神様は、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。それがクリスマスの出来事です。最初、主イエスが神の国の福音を宣べ伝え始めた時、人々は病をいやし、悪霊を追い出し、力強い業を行う主イエスに期待しました。ユダ王国の再建を夢見ていたからです。ところが主イエスは人々の期待に反し、ゲッセマネの園で捕らえられ、裁判にかけられ、十字架にかけられて殺されてしまいました。弟子たちは失意のどん底に突き落とされてしまいました。

 十字架の出来事から三日目、そんな弟子たちによみがえりの主は現れてくださいました。そして弟子たちにガリラヤに行き、指示しておいた山に登るように命じられました。その所で、11人の弟子たちはよみがえりの主にお会いしたのです。復活の主は大宣教命令を告げられ、父なる神のみもとにお帰りになられました。ヨハネの黙示録を見ると、イエス・キリストの再臨が預言されています。その時に神の支配は確立し、神の国は完成するのです。それが世の終わり、終末です。歴史の終局であり、第二のクリスマスなのです。私たちは今、二重の意味でアドヴェントを過ごしています。2000年前の出来事を思い返しながら、また未来の主の再臨に思いを馳せながら、クリスマスを喜び祝うと共に、希望と期待に胸を膨らませているのです。

12月 2日主日礼拝説教要旨

2012-12-02

12月 2日主日礼拝説教要旨
杉山修一牧師

「あなたはメシア」
マタイによる福音書16章13~23節

 聖書は「神の言(ことば)」である、と言われます。それは、神様のメッセージを伝え、神様の御心を示しているものだからです。「主の祈り」の中に、「みこころの天になるごとく/地にもなさせたまえ」という祈りがあります。神様のおられるところでは、神様の御心は誰の目にも明らかですが、今私たちが住んでいるこの世界では、「どうして」「なぜ」と思うことがたくさん起こります。神様の御心は隠されているのでは、と思ってしまいます。もし、神様が何も教えてくださらなければ、私たちは自分の頭で考えて、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませたり、勝手に推測するしかありません。

 ところが、神様が引き起こされる出来事は、人間の理解を超える形で示されることが多いのです。奇跡などはまさにそうです。ですから、出来事が起こる前に事前に知らせてもらい、教えてもらわなければ、受け入れられないようなことが多いのです。主イエスは、神様が見えなくなってしまった私たちに神様の御心を教えてくださるために、この世においでになられました。最初からそんなことを言っても、おそらく誰も信じません。そこで主イエスは、最初は神の国のお話しをしたり、病気の人をいやしたり、悪霊を追い出したり、人々が驚くようなことをなさったため、人々はこのお方こそメシアに違いないと思うようになりました。

 その後に及んでようやく主イエスは、御自分が何のためにこの世においでになられたのかを明らかにされたのです。主イエスは決して、人々の評判を気にかけておられるのではありません。神様の救いの出来事はこの世の論理では理解できませんので、これから起ころうとしている神様の出来事を、事が起こる前に知らせておこうとされたのです。人々の評判を聞いた後、主イエスは「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけておられます。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と得意げに答えました。百点満点の答えです。このペトロの信仰告白の上に、キリストの教会は建てられて参ります。

 そして、このときから主イエスの受難予告が始まりました。しかし、神のメシアが無残な殺され方をするなど、弟子たちにとってはとうてい受け入れられることではありません。ペトロは主イエスをわきにお連れして、いさめ始めました。主イエスはそのペトロをサタン呼ばわりして厳しく叱責されたものの、ペトロをお見捨てにはなりません。神様はそのようなペトロをも使徒として立て、神様の御用に用いてくださるのです。神様の御心、神様の御計画は、人間の論理では理解できません。私たちはまずそのことを受け入れ、それから隠されている奥義に心を向けて参ります。主イエスの母マリアのように心に留め、思い巡らしていく中で、少しずつ分からせられて参ります。

11月25日主日礼拝説教要旨

2012-11-26

「罪人と食事をするイエス」 マタイによる福音書9章9~13節

杉山 望神学生

徴税人は敵国ローマに仕えて働き、人々から金を不正に取り立てていました。彼らは同胞であるユダヤ人から憎まれ、軽蔑されていました。ファリサイ派の人たちは徴税人を「罪人」と呼び、ユダヤ会堂に入って礼拝することも禁じ、同胞の交わりから排除していました。徴税人の悔い改めが認められるためには、不正に取り立てた金額の1.2倍の金額を返還するという条件がありましたが、実際にこれを行うことはほとんど不可能でした。

徴税人マタイの座っている収税所を通りかかったイエスは、マタイに「わたしに従いなさい」と呼びかけます。すべての人を神に愛された者として見るイエスは、徴税人マタイの魂の飢え渇きまで見通します。イエスの呼びかけには何の条件もありません。自分の努力で正しく生きることができないマタイを、無条件で御自身のもとへと招かれます。イエスはマタイの罪を自ら担い、マタイを弟子へと招くのです。マタイは収税所から立ち上がり、イエスに従います。

その後、イエスは大勢の徴税人や罪人たちと共に食事をします。罪人と食事をすれば自分も罪で汚れる、と考えていたファリサイ派の人たちにとって、イエスの行為は驚きでした。ファリサイ派の人たちは弟子たちに向かって、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問いかけます。律法を守り、自分で自分を義としようとするファリサイ派の人たちは、大切なことを見落とします。

イエスはファリサイ派の人たちに答えます。神が求めるものは憐れみであって、いけにえではない。律法を守るために憐れみをいけにえとするのではなく、憐れみの心によって愛を行うことを神は喜ぶのです。イエスは罪人の仲間・友・家族となってくださいます。さらに、御自身の弟子たちを罪人との交わりへと導き、罪人の仲間・友・家族となるように招きます。イエスの弟子たちは世の中から隔離されるのではありません。イエスの御言葉を聞き、イエスの招きに応えて、世のただ中で生きるようにと召されるのです。罪人と共に食卓に着くイエスと共に、弟子たちも食卓を共にするのです。

11月18日主日礼拝説教要旨

2012-11-19

日本バプテスト連盟国際ミッションボランティア
 佐々木和之師
「天の国籍は全ての人に」 フィリピ書3章17~21節
エフェソ書2章14~22節

 主イエスの十字架とは、神との和解、そして、相争ってきた人と人、民と民の和解をもたらす十字架である。それは、世界を包む十字架であり、あの人たちは天国行き、この人たちは地獄行きというように、人間を分断するための十字架ではない。だから、私たちすべての者が本来天に国籍を持つものであり、主イエスの十字架によって神と和解させられ、地上において様々な理由で対立している私たち人間も、再びその「天の国」という本来の故国の同胞として、「神の家族」として歩むことができるようになることを夢見たいと思う。

 すべての人が、本来のふるさとである、神のみもとに帰っていくようにと招かれている。そして、武器を捨て、和解に向けて一歩踏み出すようにと招かれているのだ。そのために、主イエスが命をかけてくださったのである。この「和解の福音」の光のもとでフィリピ書3章20節を読むときに、私たちは、「天にある国籍」を「クリスチャンである私たち」と「そうでない彼ら」を分け隔てる言葉として済ますわけにはいかなくなる。

 「私たちの国籍は天にある」とのみことばは、むしろすべての人々を包み結びつけるみことばである。私は、2010年8月、日韓併合100周年に韓国を訪問した際、韓国のクリスチャンの優しさに心打たれた。8月15日、ソウルのある教会で出席させていただいた解放記念礼拝で、日本人クリスチャンとして挨拶をさせていただいた。その挨拶への応答として、韓国人牧師は、日本人の魂の救いのために、そして、謝罪の心を持っている日本の人たちに対して、キリストの愛をもって応えましょうと祈ってくださった。そして、礼拝の後には、その教会の長老のお一人が、「私たちの国籍は天にありますから」、と言ってくださったのだった。

 私はその言葉から、韓国と日本の間にはいまだに乗り越えられていない問題がたくさんあるけれども、「私たちの国籍が天にあるのだから、きっとそれを乗り越えていける」、と言ってくださったのだと感じ、とても励まされた。その方は、このみことばを二つの国民を包み、結び付ける言葉として、両者が分断を乗り越え、和解を実現することが出来るという、希望の言葉として語りかけてくださったのである。

 多くの日本人は、植民地支配と侵略戦争の罪責に真摯に向き合うことをせず、戦後60年以上を過ごしてきた。広島と長崎に原爆を落とし、日本のほとんどの都市を空爆で火の海にしたアメリカは、それらのことに謝罪できないでいるばかりか、正当化を続けている。アフリカでは多くの国々で血みどろの争いが続いている。私たち人間の力では、民と民の間に横たわっている溝を埋めることは出来ないのかもしれない。それくらいその溝は深いのだ。

 しかし、私たちすべての人間の本来の故郷は天にある。そして、そこからイエス・キリストが再び来られて、私たちを、人種、国籍、家系、性別、社会的地位など一切問わずに、その国の市民として迎え入れてくださるという希望が与えられているのだ。私たちの主イエス・キリストは「和解の主」。和解のために生きて働いておられる主イエスに望みを抱き、私たちに委ねられた「和解の務め」を全力で果たしていきたい。

11月11日主日礼拝説教要旨

2012-11-12

「神さまからのメッセージは何ですか?」 ヨナ書3章1~10節
天野武男協力牧師

 ニネベは帝国アッシリアの首都、異邦人の都です。ヨナは、ニネベが助かるならば、死ぬほうがましだと神に答えています。しかし、神はヨナに2回、預言者としてのメッセージを与えました。旧約聖書のダビデは、神と人とに大変愛された王でした。しかし、このダビデほど神に背いた人も他にはないでしょう。このダビデから、「メシア、救い主」と呼ばれるイエスの誕生へと続きます。このように、神の赦しとともにもう一度のチャンスが与えられているのです。新約聖書のペトロも、イエスを3回も、「そんな人は知らない」(マタイ福音書26章)と強く否定しました。しかし、イエスは3回も、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ福音書21章)と言って、羊を世話する牧者になるようにと任命されたのです。聖書66巻を通して神が教えていることは、「神の愛」(アガペー)ではないでしょうか。

 母親はだれでも、障害を持って生まれても、どんなに罪深い子どもであっても、どれほど年取っても、我が子をどれほど愛しているかについて、私たちは想像できません。その子どもの存在そのものが母親の生きがいであり、喜びでもあるのです。神は、このアガペーの「愛」をもってニネベの人々も愛しておられるのです。でもヨナは、ニネベの人々は悪を行い、神に逆らう人々であるから、神の愛を受けるにふさわしくない人々だと思っていました。だから神の言いつけに背いて、ニネベの反対方向に逃げて行ったのです。神にとっては、ニネベの人々がどういう人々であるかには関係なく、その人たちをそのまま、あるがままに愛しておられたのです。

 神は、アッシリアの人々が憎いから、嫌って罰を与えようとして近づいたのではないのです。彼らの罪を赦して、「我が子」として胸に抱きとめたかったのです。神は外国の土地、アッシリアとその人々を愛しておられたから、ヨナを預言者としてニネベに送り込まれたのです。これは新約聖書のイエスの姿ともいえます。

 私たちを創造された神は、私たちを滅ぼすためにイエスをこの世に送り込まれたのではありません。イエスは、神から離れて、悪を行っている私たち人間に悔い改めを求めているのです。この「アガペー」の愛は、「放蕩息子」(ルカ福音書15章)の兄弟二人を愛しておられる神の愛の姿を伝えています。神は全ての人々が悔い改めて、神の救いに与ることを願っておられるのです。神は全ての人を「我が子」としてそのまま、あるがままに受け入れて、アガペーの「愛」でもって愛しておられるからです。これがヨナに与えられたメッセージではないでしょうか。

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