練習用

定める法律

2014-10-07

定める法律

2014-10-07

ミカ書5章1節 いと小さき者から(後半)

2014-08-12
20131117日川越教会
いと小さき者から(後半)
[2] 終わりの日の約束
 神さまが創造された世界は、悪のない楽園でした。楽園の中央に命と善悪を知る木とが一体となって植えられていました。神さまはこの木の実だけは食べてはならないと、園を  管理するアダムにお命じになりました。善悪の判断は神が下す命は神が与える。人が勝手にしてはならないという、神さまの命令です。そうです。善悪の基準は一つでなければなりません。人がそれぞれ自分で善悪を決めるから、人よって善と悪が異なり、そこで衝突、争いが起こるのです。命も人が勝手にしてはなりません。
 
しかしアダムとエバは禁じられていた木の実を食べてしまいました。アダムとエバの家庭に兄が弟を殺すという殺人事件が起こりました。楽園は失われてしまったのです。神の 創造された世界が、今日このようになってしまったのです。預言者たちは、人の犯す数々の罪神の裁きを厳しく預言します。滅びを語ります。しかし同時に、歴史の究極、終わりの日に神さまが備えておられる平和をも明らかにしました。それがイザヤやミカが語った「終末の平和」「終わりに日の約束」です。
 ここで示されているのは、世界中の人が、主が示される道を歩もうとして、神さまの許に集まって来るということです。神さまが善悪を示して、争いを裁き、戒めてくださるならば、戦争で決着をつけることがなくなります。剣も槍も核兵器もいらなくなります。皆で生産に励み、仲良く分け合い助け合って暮していけます。皆さん、このほかに究極的平和の道があるでしょうか。
そこで大切な課題となるのが、では神さまの御心をどのように聞き取っていくかです。
イザヤは「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」という言葉で、ダビデの子孫から、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する平和の主の誕生を予言しました。(イザヤ11:1~10) 一方ミカは、「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。」(5:1)と預言したのです。
 エフラタはベツレヘムの古い名前です。ですから昔はエフラタと呼ばれたベツレヘムと言うことです。ダビデ王の出身地です。ユダヤの人たちにとっては、世界を救う救世主はダビデ王のような方と思う人が多かったのでしょう。人々はダビデ王の子孫からということで、ダビデの輝かしい栄光を期待しましたが、しかしイザヤの預言は、弱い人、貧しい人を正義と公平で守るお方でした。またミカの預言では、ユダの氏族の中で最も小さい者という視点でベツレヘムが選ばれ、平和の王が生まれ出ると、予言されたのでした。
 
こうして、世界に究極の平和をもたらす王は、世の貧しい者、弱い者を守るために、最も小さな町から誕生するお方という神さまの御心が、預言者イザヤ、預言者ミカを通して示されたのでした。
[3] 権力者の実の姿
 私たちは、来月になりますとイエス・キリストのお誕生を祝うクリスマスを迎えます。  東の国の占星術の学者たちが、不思議な星の光に導かれ、ユダヤに新しい王が誕生したと信じて、エルサレムの王宮を訪れました。ヘロデは王である自分の他に、新しい王が誕生したとすれば、それは救世主メシアに違いないと思い、祭司長や律法学者たちに尋ねました。彼らは直ぐに聖書から、「それはベツレヘムです」と言って、ミカの預言を示しました。これほどミカの預言は、ユダヤの人々にしっかりと受けとめられていたのですね。
 博士たちは、再び星に導かれて小さな町ベツレヘムへ向かい、貧しい馬小屋で誕生したイエス・キリストをひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬の贈り物を献げて、喜びにあふれて  帰っていきました。しかし聖書のミカ書によって、キリスト誕生の場所を確認したヘロデ王祭司長律法学者たちも、そのまま都の王宮や神殿に留まって、貧しい救い主の誕生を拝もうとはしなかったのです。
 それどころか、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺で誕生した2才以下の男の子を殺しています。祭司長や学者たちは、やがて成長して神の国の到来を宣べ伝える救い主イエス・キリストを、神を冒涜する危険人物として逮捕し、十字架にはりつけて殺してしまいました。これが権力者の実の姿なのでした。
この世の権力者たちは、手に入れた権力、特権をいつまでも持ち続けることに汲々とします。自分の地位を脅かす者は、権力をふるって打ち倒し、我が身の安泰をはかります。これでは、争いが絶えません。平和はもたらされません。神さまが世界を創造された時、この世界は楽園でした。神さまが善悪をお裁きになり、皆はそれに聞き従ったからです。全ての者が皆、神さまの裁きに聞き従う――これこそが楽園の原則です。
 ですから、イザヤもミカも究極の平和は、世界中の人々が、主の示される道を求めて集まって来る。そして主が争いを裁き、強い国を戒められる時、「剣は鋤に、槍は鎌に打ち直され、戦いはなくなる」と語ったのでした。では、神さまの裁きとは、どのようなものなのでしょうか。 
[結] 天国をつくる心
 イエス・キリストは、終わりの日に天国へ迎えられる人について、マタイ福音書2534節以下で、こう語られました。「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 報いを求めず、最も小さい者に食べものを与え、一杯の水を飲ませ、宿を貸し、着物を分け与え、病床を見舞い、故なく牢に入れられた人を慰めた人が、天国に迎えられるのです。イエスさまは、この世の最も小さい者を私の兄弟とおっしゃいました。私たちの世界では、小さな者、弱い者は見向きもされません。力ある者、大きな者ほど大事にされます。理想に燃えた若き医師徳田虎雄さんも、必死になって衆議院議員という権力者になり、重んじられて、徳洲会病院を350も全国につくる大物になりました。そして75才の今、事業を大きくすることで身に負ってしまった悪を、裁かれる身となったのです。
 天国を備える神さまの御心は、最も小さい者、弱い者を大切にし、共に寄り添って生きていく心こそ天国をつくる心だとおっしゃっておられるのです。ですから最も小さな町ベツレヘムを選んで、救い主を誕生させたのです。貧しいナザレの大工の息子イエスとして成長し、貧しい者、弱い者の友として福音を語り、権力者の悪に負けて十字架に殺されながら、天国を創り上げる神の愛の勝利、本当の平和への道筋をお開きになったのでした。
この世の最も小さい者、弱い者の中に、世界の平和があるのです。神さまはクリスマスを通して、最も小さい者、弱い者こそ大切にすることから、世界の平和を創りだしていくようにと、訴えておられるのです。最も小さい者をわたしの兄弟であるとおっしゃる神の子イエスさまのお言葉・天国をつくる心を、私たちの心にしっかりと受けとめて、自分の人生を選び取り、生きていき参りましょう。    完

ミカ書5章1節 いと小さき者から(後半)

2014-08-12
20131117日川越教会
いと小さき者から(後半)
[2] 終わりの日の約束
 神さまが創造された世界は、悪のない楽園でした。楽園の中央に命と善悪を知る木とが一体となって植えられていました。神さまはこの木の実だけは食べてはならないと、園を  管理するアダムにお命じになりました。善悪の判断は神が下す命は神が与える。人が勝手にしてはならないという、神さまの命令です。そうです。善悪の基準は一つでなければなりません。人がそれぞれ自分で善悪を決めるから、人よって善と悪が異なり、そこで衝突、争いが起こるのです。命も人が勝手にしてはなりません。
 
しかしアダムとエバは禁じられていた木の実を食べてしまいました。アダムとエバの家庭に兄が弟を殺すという殺人事件が起こりました。楽園は失われてしまったのです。神の 創造された世界が、今日このようになってしまったのです。預言者たちは、人の犯す数々の罪神の裁きを厳しく預言します。滅びを語ります。しかし同時に、歴史の究極、終わりの日に神さまが備えておられる平和をも明らかにしました。それがイザヤやミカが語った「終末の平和」「終わりに日の約束」です。
 ここで示されているのは、世界中の人が、主が示される道を歩もうとして、神さまの許に集まって来るということです。神さまが善悪を示して、争いを裁き、戒めてくださるならば、戦争で決着をつけることがなくなります。剣も槍も核兵器もいらなくなります。皆で生産に励み、仲良く分け合い助け合って暮していけます。皆さん、このほかに究極的平和の道があるでしょうか。
そこで大切な課題となるのが、では神さまの御心をどのように聞き取っていくかです。
イザヤは「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」という言葉で、ダビデの子孫から、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護する平和の主の誕生を予言しました。(イザヤ11:1~10) 一方ミカは、「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。」(5:1)と預言したのです。
 エフラタはベツレヘムの古い名前です。ですから昔はエフラタと呼ばれたベツレヘムと言うことです。ダビデ王の出身地です。ユダヤの人たちにとっては、世界を救う救世主はダビデ王のような方と思う人が多かったのでしょう。人々はダビデ王の子孫からということで、ダビデの輝かしい栄光を期待しましたが、しかしイザヤの預言は、弱い人、貧しい人を正義と公平で守るお方でした。またミカの預言では、ユダの氏族の中で最も小さい者という視点でベツレヘムが選ばれ、平和の王が生まれ出ると、予言されたのでした。
 
こうして、世界に究極の平和をもたらす王は、世の貧しい者、弱い者を守るために、最も小さな町から誕生するお方という神さまの御心が、預言者イザヤ、預言者ミカを通して示されたのでした。
[3] 権力者の実の姿
 私たちは、来月になりますとイエス・キリストのお誕生を祝うクリスマスを迎えます。  東の国の占星術の学者たちが、不思議な星の光に導かれ、ユダヤに新しい王が誕生したと信じて、エルサレムの王宮を訪れました。ヘロデは王である自分の他に、新しい王が誕生したとすれば、それは救世主メシアに違いないと思い、祭司長や律法学者たちに尋ねました。彼らは直ぐに聖書から、「それはベツレヘムです」と言って、ミカの預言を示しました。これほどミカの預言は、ユダヤの人々にしっかりと受けとめられていたのですね。
 博士たちは、再び星に導かれて小さな町ベツレヘムへ向かい、貧しい馬小屋で誕生したイエス・キリストをひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬の贈り物を献げて、喜びにあふれて  帰っていきました。しかし聖書のミカ書によって、キリスト誕生の場所を確認したヘロデ王祭司長律法学者たちも、そのまま都の王宮や神殿に留まって、貧しい救い主の誕生を拝もうとはしなかったのです。
 それどころか、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺で誕生した2才以下の男の子を殺しています。祭司長や学者たちは、やがて成長して神の国の到来を宣べ伝える救い主イエス・キリストを、神を冒涜する危険人物として逮捕し、十字架にはりつけて殺してしまいました。これが権力者の実の姿なのでした。
この世の権力者たちは、手に入れた権力、特権をいつまでも持ち続けることに汲々とします。自分の地位を脅かす者は、権力をふるって打ち倒し、我が身の安泰をはかります。これでは、争いが絶えません。平和はもたらされません。神さまが世界を創造された時、この世界は楽園でした。神さまが善悪をお裁きになり、皆はそれに聞き従ったからです。全ての者が皆、神さまの裁きに聞き従う――これこそが楽園の原則です。
 ですから、イザヤもミカも究極の平和は、世界中の人々が、主の示される道を求めて集まって来る。そして主が争いを裁き、強い国を戒められる時、「剣は鋤に、槍は鎌に打ち直され、戦いはなくなる」と語ったのでした。では、神さまの裁きとは、どのようなものなのでしょうか。 
[結] 天国をつくる心
 イエス・キリストは、終わりの日に天国へ迎えられる人について、マタイ福音書2534節以下で、こう語られました。「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 報いを求めず、最も小さい者に食べものを与え、一杯の水を飲ませ、宿を貸し、着物を分け与え、病床を見舞い、故なく牢に入れられた人を慰めた人が、天国に迎えられるのです。イエスさまは、この世の最も小さい者を私の兄弟とおっしゃいました。私たちの世界では、小さな者、弱い者は見向きもされません。力ある者、大きな者ほど大事にされます。理想に燃えた若き医師徳田虎雄さんも、必死になって衆議院議員という権力者になり、重んじられて、徳洲会病院を350も全国につくる大物になりました。そして75才の今、事業を大きくすることで身に負ってしまった悪を、裁かれる身となったのです。
 天国を備える神さまの御心は、最も小さい者、弱い者を大切にし、共に寄り添って生きていく心こそ天国をつくる心だとおっしゃっておられるのです。ですから最も小さな町ベツレヘムを選んで、救い主を誕生させたのです。貧しいナザレの大工の息子イエスとして成長し、貧しい者、弱い者の友として福音を語り、権力者の悪に負けて十字架に殺されながら、天国を創り上げる神の愛の勝利、本当の平和への道筋をお開きになったのでした。
この世の最も小さい者、弱い者の中に、世界の平和があるのです。神さまはクリスマスを通して、最も小さい者、弱い者こそ大切にすることから、世界の平和を創りだしていくようにと、訴えておられるのです。最も小さい者をわたしの兄弟であるとおっしゃる神の子イエスさまのお言葉・天国をつくる心を、私たちの心にしっかりと受けとめて、自分の人生を選び取り、生きていき参りましょう。    完

ミカ書5章1節  いと小さき者から 

2014-08-10
20131117日川越教会
いと小さき者から
加藤 享
[聖書] ミカ書5章1節
 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
 
マタイによる福音書2章1~8節
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 
[] 大きくなろうとする誘惑
 先週の新聞には徳洲会病院グループの徳田理事長一族あげての衆議院議員選挙違反が、連日にわたり大きく取り上げられました。今から40年ほど前に鹿児島県南の島々に、救急医療を十分に施す病院をと叫んで徳洲会病院を建てようとした若い医師徳田虎雄さんの 報道を読んだ記憶があります。その徳洲会病院グループが今日では、日本全国に350施設、医師職員27000人の巨大なグループになっていたとは、驚きました。
 
 病院の設立には県庁の認可が必要です。若い医者が県庁に申請に行っても課長の応対どまりで、地元の医師会の反対にあうと認可がおりません。政治力の必要を痛感して、徳田さんは鹿児島県で衆議院選挙にうって出て、3回目にやっと当選しました。すると県庁に行ってもすぐに知事と面会でき、病院認可もスムーズにいくようになったのだそうです。こうして病院の発展のための衆議院の議席確保が息子にも受け継がれ、組織上げての選挙活動が継続されてきたのでした。
 
 さらに選挙活動には建設・設備業者も動員されたと報道されました。一つの病院開設に80億円かかります。不況の中でそのような工事に参加できることは、業者にとって大きな助けです。こうして徳洲会の威力は拡がっていったのでした。徳田一族の利得は膨大だと報じられていますから、いずれ経理の不正にも捜査が及んでいくでしょう。
徳洲会グループが大きくなるほど、全国の医師会との軋轢も大きくなります。ますます政治家たちの間に支持を拡げていく政治力が必要になります。良い医療の普及をという若い医師の理想と情熱から始まった徳洲会病院の働きが、力が増すにつれて悪にまみれた組織に成り果ててきたとは、本当に残念であり、また恐ろしいことです。
 
[1] 預言者イザヤとミカ
 今日の聖書は旧約聖書の預言書の一つミカ書です。ミカは、サマリアを都とする北王国が紀元前721年にアッシリヤに滅ぼされるという歴史の激動期に、あの大予言者イザヤより少し遅れて南王国で預言者として働きました。イザヤは貴族の出でエルサレムの都で活動しましたが、ミカはエルサレムから南西40kmのモシェレト・ガトという農村地帯出身の庶民でした。ですから貧しく虐げられた人々の立場から、都に暮す権力を握る豊かな者たちへの神の裁きを語りました。
 
ミカから100年後に、エレミヤがエルサレムの神殿で神の裁きを語り、死刑にされようとした時に、幾人かの長老たちが立ち上がり、預言者ミカの名をあげてエレミヤを弁護しています。エレミヤ書2617節以下を紹介いたしましょう。
 
この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」
 
 地方の庶民の一人であるミカでしたが、彼の預言は100年後にも、このように心ある人々の間に覚えられていたのでした。憲法記念日を迎えた今年の5月5日に、私はイザヤの  有名な預言から「剣を鋤に 槍を鎌に」と題して説教をしました。イザヤ書2章の預言です。
 
「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
 
イザヤのこの素晴らしい預言は、そのままミカ書の4章1節以下にも記されているのです。この預言は、ミカがイザヤから聞いて語ったのでしょうか。イザヤがミカから聞いて語ったのでしょうか。関根正雄先生は別の預言者の言葉を、二人がそれぞれ引用したのだろうと解釈しています。いずれにしても、世界の究極の平和を、このように民に語った  預言者ミカは、イザヤと共に優れた預言者でした。

ミカ書5章1節  いと小さき者から 

2014-08-10
20131117日川越教会
いと小さき者から
加藤 享
[聖書] ミカ書5章1節
 エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。 お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
 
マタイによる福音書2章1~8節
 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
 
[] 大きくなろうとする誘惑
 先週の新聞には徳洲会病院グループの徳田理事長一族あげての衆議院議員選挙違反が、連日にわたり大きく取り上げられました。今から40年ほど前に鹿児島県南の島々に、救急医療を十分に施す病院をと叫んで徳洲会病院を建てようとした若い医師徳田虎雄さんの 報道を読んだ記憶があります。その徳洲会病院グループが今日では、日本全国に350施設、医師職員27000人の巨大なグループになっていたとは、驚きました。
 
 病院の設立には県庁の認可が必要です。若い医者が県庁に申請に行っても課長の応対どまりで、地元の医師会の反対にあうと認可がおりません。政治力の必要を痛感して、徳田さんは鹿児島県で衆議院選挙にうって出て、3回目にやっと当選しました。すると県庁に行ってもすぐに知事と面会でき、病院認可もスムーズにいくようになったのだそうです。こうして病院の発展のための衆議院の議席確保が息子にも受け継がれ、組織上げての選挙活動が継続されてきたのでした。
 
 さらに選挙活動には建設・設備業者も動員されたと報道されました。一つの病院開設に80億円かかります。不況の中でそのような工事に参加できることは、業者にとって大きな助けです。こうして徳洲会の威力は拡がっていったのでした。徳田一族の利得は膨大だと報じられていますから、いずれ経理の不正にも捜査が及んでいくでしょう。
徳洲会グループが大きくなるほど、全国の医師会との軋轢も大きくなります。ますます政治家たちの間に支持を拡げていく政治力が必要になります。良い医療の普及をという若い医師の理想と情熱から始まった徳洲会病院の働きが、力が増すにつれて悪にまみれた組織に成り果ててきたとは、本当に残念であり、また恐ろしいことです。
 
[1] 預言者イザヤとミカ
 今日の聖書は旧約聖書の預言書の一つミカ書です。ミカは、サマリアを都とする北王国が紀元前721年にアッシリヤに滅ぼされるという歴史の激動期に、あの大予言者イザヤより少し遅れて南王国で預言者として働きました。イザヤは貴族の出でエルサレムの都で活動しましたが、ミカはエルサレムから南西40kmのモシェレト・ガトという農村地帯出身の庶民でした。ですから貧しく虐げられた人々の立場から、都に暮す権力を握る豊かな者たちへの神の裁きを語りました。
 
ミカから100年後に、エレミヤがエルサレムの神殿で神の裁きを語り、死刑にされようとした時に、幾人かの長老たちが立ち上がり、預言者ミカの名をあげてエレミヤを弁護しています。エレミヤ書2617節以下を紹介いたしましょう。
 
この地の長老が数人立ち上がり、民の全会衆に向かって言った。「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり エルサレムは石塚に変わり 神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたではないか。我々は自分の上に大きな災いをもたらそうとしている。」
 
 地方の庶民の一人であるミカでしたが、彼の預言は100年後にも、このように心ある人々の間に覚えられていたのでした。憲法記念日を迎えた今年の5月5日に、私はイザヤの  有名な預言から「剣を鋤に 槍を鎌に」と題して説教をしました。イザヤ書2章の預言です。
 
「終わりの日に 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい 多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
 
イザヤのこの素晴らしい預言は、そのままミカ書の4章1節以下にも記されているのです。この預言は、ミカがイザヤから聞いて語ったのでしょうか。イザヤがミカから聞いて語ったのでしょうか。関根正雄先生は別の預言者の言葉を、二人がそれぞれ引用したのだろうと解釈しています。いずれにしても、世界の究極の平和を、このように民に語った  預言者ミカは、イザヤと共に優れた預言者でした。

たといそうでなくても(後半) 2013年8月18日 ダニエル3:13-30

2014-05-06
(前半より続く)
2013818日川越教会
       たといそうでなくても(後半)   加藤 享
                [聖書] ダニエル書3章13~30節
 
[3] 国王によって造られる神々
 ダニエル書の2章では、ネブカドネツァル王が、何度も見る夢に不安になり眠れなくなりました。ダニエルはその夢の示す意味を明快に解き明かしました。それは「王国が次々と起こっては滅びていくこと、しかし歴史の終わりには、すべての国を滅ぼして永遠に続く国を天の神は興される」 という神のお告げでした。それを聞いて王は、ダニエルの前にひれ伏して、「あなたたちの神は  まことに神々の神、すべての王の主」と告白しています。
 
 それなのに続く3章では、巨大な金の像を建てて、全ての家来、諸国、諸族、諸言語の人々にひれ伏して拝めと命令を下しています。これはバビロン王の絶大な権威の前に皆がひれ伏し、絶対服従せよという命令です。手中の権力をいつ奪われかと怯える権力者の姿が透けて見えます。そして金の像を造って神として拝めと命じるのですから、その神は王によって造られた神ということになります。権力者によって造られ、権力者に利用される神々。王の家来の一人に過ぎない神。なんと安っぽい神でしょうか。
 
 朝鮮民族を支配した日本の国家権力も、全家庭、全教会の聖壇にも神棚を置かせ、「気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮、八百万の神に向かって最敬礼!」と礼拝を強制しました。世界各地の権力者に よって次々を造られていく神々ですから、八百万の神なのですね。シンガポールでも占領すると直ちに皇大神宮の分社・昭南神社を建て、全ての宗教指導者も含めて、参拝を強制しました。ですから日本が負けると真っ先に、跡形もなく壊されてしまいました。
 
 その上、その神を拝まない者を燃え盛る火の炉に投げ込むことをさせる神とは、何と非情、残酷な神なのでしょうか。今日の週報巻頭言にも紹介しました、殉教者朱牧師夫妻を拷問に処した警察官に、このような行為をさせた天皇という生き神さま、天照大神とは、何という残酷・非情な神なのでしょうか。天皇は、天皇という名がアジア各地でどのように残酷・非情な行為を人々にさせたかという責任を自覚しているのでしょうか。また現在日本国の総理大臣という地位にある安倍さんも、東条英樹に代表される総理の名の下で行われた、数々の恐ろしい行為の責任を継承していることに気付いているのでしょうか。
 
 酒枝先生は、は果たして実在者なのか、あるいは信者の信念、あるいは思想なのかと問いかけています。神さまは、昔アブラハムを選びお召になった時「祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記1223)とおっしゃいました。神さまは、地上のすべての氏族を祝福される神なのです。その神さまがナザレのイエスとしてこの世に生まれて歴史の実在者となり、貧しい者たちに寄り添って生きて下さり、十字架刑に処せられて死に、墓より復活して天に戻っていかれました。私たちはこのお方を、ご自身を世に啓示された神キリストと信じます。
 
イエスキリストは「私は良い羊飼いである」「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」また「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章)とおっしゃいました。神さまは、私たち一人ひとりの命を豊かにして下さるために、ご自分の命も捨ててくださいました。それが十字架の死です。神さまとはこのように、ご自分の命まで捨てて、私たち一人ひとりに命を豊かに与えてくださるお方なのです。自分を拝まないからといって殺したり、残酷な拷問にかけたりする神とは、全く正反対のお方です。どちらが真の神でしょうか。天皇も天照大神も巨大な金の像も、それを建てた国王も、神ならざる神です。
 
[] 真の愛を分け合う
 良い羊飼いイエス・キリストはおっしゃいました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ1016)この囲いに入っている羊とは、現在イエス・キリストを自分の羊飼いと信じて教会という囲いに属している信者でしょう。しかし世界には教会に属していない人々が大勢います。
 
 全ての民を祝福する神・イエスキリストの目と心は、その人々にも注がれているのは当然です。そしてその人々が命を豊かに受けるためにも、ご自分の命を十字架で捨ててくださったのでした。そして「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言い切っておられます。十字架に現された神の愛の呼びかけは、世界中のどんな人にも聞き分けられると、神さまは確信 しておられるのです。
 
 神の名のもとで、人々を痛めつけ、服従させていく神は、神ではありません。この世の権力者に利用され、操られている偽の神です。僕の姿をとり、国籍、宗教、地位を問わず、苦しむ者、悲しむ者、病む者、貧しい者、弱い者、虐げられている者たちに寄り添い、慰め、助け、癒して下さるお方こそ、真の愛の神さまです。
 
 言葉が違う、文化が違う、宗教が違う――これが世界を一つにしない根本原因です。どうしたら共通理解が持てる世界が生まれるのでしょうか。しかし人は皆、真の愛を求めています。人と共に愛を分け合って生きる喜びを求めています。どんな人でも、そのような命の飢え渇きを心の底に抱いているのではないでしょうか。世界は共通しているのです
 
「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ご自分自身を十字架にはりつけにして、世界のすべての人に、豊かな命を生きる者にして下さる愛にこそ、全世界の人々の心を包んで、一つにする力があると、主イエスは確信しておられるのです。
 
 私たちクリスチャンも、十字架を掲げて、人々を弾圧し、殺してきています。羊飼いの命と全く相反する行為を繰り返して、敵を作ってきました。今こそ一人ひとりが、十字架の愛にしっかりと立たなければなりません。世界の何処へでも出て行って、そこに暮す人々と十字架の愛を分かち合い、共々に神の羊の群れを作って参りましょう。
                                  完

たといそうでなくても(後半) 2013年8月18日 ダニエル3:13-30

2014-05-06
(前半より続く)
2013818日川越教会
       たといそうでなくても(後半)   加藤 享
                [聖書] ダニエル書3章13~30節
 
[3] 国王によって造られる神々
 ダニエル書の2章では、ネブカドネツァル王が、何度も見る夢に不安になり眠れなくなりました。ダニエルはその夢の示す意味を明快に解き明かしました。それは「王国が次々と起こっては滅びていくこと、しかし歴史の終わりには、すべての国を滅ぼして永遠に続く国を天の神は興される」 という神のお告げでした。それを聞いて王は、ダニエルの前にひれ伏して、「あなたたちの神は  まことに神々の神、すべての王の主」と告白しています。
 
 それなのに続く3章では、巨大な金の像を建てて、全ての家来、諸国、諸族、諸言語の人々にひれ伏して拝めと命令を下しています。これはバビロン王の絶大な権威の前に皆がひれ伏し、絶対服従せよという命令です。手中の権力をいつ奪われかと怯える権力者の姿が透けて見えます。そして金の像を造って神として拝めと命じるのですから、その神は王によって造られた神ということになります。権力者によって造られ、権力者に利用される神々。王の家来の一人に過ぎない神。なんと安っぽい神でしょうか。
 
 朝鮮民族を支配した日本の国家権力も、全家庭、全教会の聖壇にも神棚を置かせ、「気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮、八百万の神に向かって最敬礼!」と礼拝を強制しました。世界各地の権力者に よって次々を造られていく神々ですから、八百万の神なのですね。シンガポールでも占領すると直ちに皇大神宮の分社・昭南神社を建て、全ての宗教指導者も含めて、参拝を強制しました。ですから日本が負けると真っ先に、跡形もなく壊されてしまいました。
 
 その上、その神を拝まない者を燃え盛る火の炉に投げ込むことをさせる神とは、何と非情、残酷な神なのでしょうか。今日の週報巻頭言にも紹介しました、殉教者朱牧師夫妻を拷問に処した警察官に、このような行為をさせた天皇という生き神さま、天照大神とは、何という残酷・非情な神なのでしょうか。天皇は、天皇という名がアジア各地でどのように残酷・非情な行為を人々にさせたかという責任を自覚しているのでしょうか。また現在日本国の総理大臣という地位にある安倍さんも、東条英樹に代表される総理の名の下で行われた、数々の恐ろしい行為の責任を継承していることに気付いているのでしょうか。
 
 酒枝先生は、は果たして実在者なのか、あるいは信者の信念、あるいは思想なのかと問いかけています。神さまは、昔アブラハムを選びお召になった時「祝福の源となるように。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記1223)とおっしゃいました。神さまは、地上のすべての氏族を祝福される神なのです。その神さまがナザレのイエスとしてこの世に生まれて歴史の実在者となり、貧しい者たちに寄り添って生きて下さり、十字架刑に処せられて死に、墓より復活して天に戻っていかれました。私たちはこのお方を、ご自身を世に啓示された神キリストと信じます。
 
イエスキリストは「私は良い羊飼いである」「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」また「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10章)とおっしゃいました。神さまは、私たち一人ひとりの命を豊かにして下さるために、ご自分の命も捨ててくださいました。それが十字架の死です。神さまとはこのように、ご自分の命まで捨てて、私たち一人ひとりに命を豊かに与えてくださるお方なのです。自分を拝まないからといって殺したり、残酷な拷問にかけたりする神とは、全く正反対のお方です。どちらが真の神でしょうか。天皇も天照大神も巨大な金の像も、それを建てた国王も、神ならざる神です。
 
[] 真の愛を分け合う
 良い羊飼いイエス・キリストはおっしゃいました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」(ヨハネ1016)この囲いに入っている羊とは、現在イエス・キリストを自分の羊飼いと信じて教会という囲いに属している信者でしょう。しかし世界には教会に属していない人々が大勢います。
 
 全ての民を祝福する神・イエスキリストの目と心は、その人々にも注がれているのは当然です。そしてその人々が命を豊かに受けるためにも、ご自分の命を十字架で捨ててくださったのでした。そして「その羊もわたしの声を聞き分ける」と言い切っておられます。十字架に現された神の愛の呼びかけは、世界中のどんな人にも聞き分けられると、神さまは確信 しておられるのです。
 
 神の名のもとで、人々を痛めつけ、服従させていく神は、神ではありません。この世の権力者に利用され、操られている偽の神です。僕の姿をとり、国籍、宗教、地位を問わず、苦しむ者、悲しむ者、病む者、貧しい者、弱い者、虐げられている者たちに寄り添い、慰め、助け、癒して下さるお方こそ、真の愛の神さまです。
 
 言葉が違う、文化が違う、宗教が違う――これが世界を一つにしない根本原因です。どうしたら共通理解が持てる世界が生まれるのでしょうか。しかし人は皆、真の愛を求めています。人と共に愛を分け合って生きる喜びを求めています。どんな人でも、そのような命の飢え渇きを心の底に抱いているのではないでしょうか。世界は共通しているのです
 
「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ご自分自身を十字架にはりつけにして、世界のすべての人に、豊かな命を生きる者にして下さる愛にこそ、全世界の人々の心を包んで、一つにする力があると、主イエスは確信しておられるのです。
 
 私たちクリスチャンも、十字架を掲げて、人々を弾圧し、殺してきています。羊飼いの命と全く相反する行為を繰り返して、敵を作ってきました。今こそ一人ひとりが、十字架の愛にしっかりと立たなければなりません。世界の何処へでも出て行って、そこに暮す人々と十字架の愛を分かち合い、共々に神の羊の群れを作って参りましょう。
                                  完

たといそうでなくても(前半) 2013年8月18日 ダニエル3:13-30

2014-05-06
2013818日川越教会
       たといそうでなくても (前半)   
                               加藤 享
[聖書] ダニエル書3章13~30節
  これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。 今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
  シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。
  間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」 ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。
 
[] 信仰の証
 ダニエル書第1章では、捕囚になってバビロンに連れて行かれたダニエル達4人の少年が、宮廷の豊かな食事を食べず、野菜と水だけで3年間を過ごして、他のどの少年よりも秀でた青年に成長し、王のそば近くに仕えるようになった信仰の強さを学びました。第2章では、繰り返し見る夢に恐れをなし、心が混乱した王の諮問に答えて、その夢の意味を明快に解いたダニエルが、彼の前にネブカドネツァル王の方が思わずひれ伏して「あなたたちの神は、まことに神々の神、すべての王の主」と言わせています。そして今日の3は、ダニエルの3人の友人シャドラク、メシャク、アべド・ネゴの信仰の証です。
 
[1] 燃え盛る火の炉を畏れない信仰
 王は自分の絶大な権力を誇るために、都の近くの平野に高さ27m、幅2.7mの巨大な金の像を建て、楽器の合図とともに、家来はいうに及ばず、諸国、諸族、諸言語の人々も皆ひれ伏して拝むように命じました。拝まない者は直ちに燃え盛る炉に投げ込まれます。しかしシャドラク、メシャク、アべド・ネゴは拝もうとしませんでした。ユダヤ人でありながら高い地位についている彼らを妬む家来たちは、早速3人を中傷して王に訴えました。
 
 王は怒りに燃え、彼らを呼び出しで申しました。「もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」しかし3人は静かに きっぱりと答えました。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉の中から、わたしたちを 救うことができる神さまです。また王よ、あなたの手からわたしたちを必ず救ってくださいます。  たといそうでなくても、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  
ネブカドネツァル王は血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じて、彼らを、上着、下着、帽子等の衣服を着けたまま縛り上げ、7倍も熱くした燃え盛る炉に投げ込みました。ところが間もなく王は驚いて立ち上がり、叫びました。「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
 
王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけました。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」 炉の中から出て来た3人を調べましたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火の匂いすらしません。ネブカドネツァル王は言いました。
 
「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても 自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」 こうして王は、 彼らをバビロン州で高い位につけたのでした。
 
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは絶大な権力を誇る国王に向かって、「神さまは、燃え盛る炉の中から私たちを救い出すことがお出来になる方です。ですから王の手からも必ず救ってくださいます。しかしたといそうではなく、この身が焼き殺されるとしても、それは神さまがそうお考えになってなさることですから、それをよしとして受け入れます。神さまに対する私たちの信仰は変わりません」 と言い切っています。何と素晴らしい信仰でしょうか。私たちの多くは、目先の危機から逃れる手段として、神仏に手を合わせて、助けを祈り願います。かなえられなければ、信じるに値しない神仏、無力な神仏と見限り、他の宗教に移っていきます。どちらが真の信仰でしょうか。
 
[2] 日本人が神の名でやったこと
 去る15日は我が国の敗戦記念日でした。政府主催の全国戦没者追悼式での安部首相の式辞には、「加害責任についてふれていない」と新聞は大きな見出しで報道していました。
私は先週福岡新生教会の世界宣教リバイバル聖会に出席して来ましたが、そこで日本の 朝鮮支配で殉教を遂げた牧師の息子さんが書いた、両親が拷問された記録を読みました。
今日の週報の巻頭言に一部分を紹介しておきましたので、ぜひお読みください。
 
 ここでは、40年前によく読まれた安利淑さんの自伝「たといそうでなくても」(待晨社)の初めの部分をご紹介します。ダニエル書と丁度同じ事件が起こったと書き始めています。
 
 「あの時と同じように、日本人はその八百万(やおよろず)の神々を偶像化して、それを全東亜に強制的に広めるために、都市や郡や村々にまで一番高くよい場所に日本の神社を建てて、官吏たちに強制参拝させた。そして学校や官庁や各家庭に至るまで、神棚を配り、強制的に拝ませた。ついには教会の聖壇にまで神棚が置かれた。クリスチャンたちが礼拝する前に、先ず日本の神棚に最敬礼をさせるため、刑事を教会に配置した。日曜日になると各教会で刑事達が鋭い目を光らせて、信者の行動を監視していた。時には制服の警官が聖壇に上って見下ろしながら、煙草を口にくわえて目を光らせていた。
 
もし牧師が反対するか、不遜な態度に出たら、すぐに引き立てて行き、耐えきれない拷問にかけて半殺しにするのであった。そしてその家族には配給を全然やらずに飢えさせ、虐待を重ねていく。このために人心は乱れ、弱い者は日本人の犬となって、日本人よりももっと悪辣になり、強い者は殺された。一般民は日本人を悪魔のように恨み、呪うように  なった。―――気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮八百万の神に向かって最敬礼!」安さんは女学校の教師として集団参拝の時に最敬礼せず、彼女の逃亡生活が始まったのでした。
 
 この本の序文で酒枝義旗先生が、「信仰不信仰戦いこそ世界史最大のテーマだ」というゲーテの言葉を引用してこう述べています。「神は実在して歴史の歩みを導き、また信じる者一人ひとりの生涯を顧みたもう方であるのか、それともキリスト信者だけが抱いている一種の信念、または思想に過ぎないのか。この本は数千年前にアブラハムを選び導き給うた神が、今もなお変わることなく信じて従う者を、どんな時にも愛し、慰め、教え、導き、すべてを益にして下さる生ける神であることを、数々の体験を通じて証している。」
             (後半へ続く)

たといそうでなくても(前半) 2013年8月18日 ダニエル3:13-30

2014-05-06
2013818日川越教会
       たといそうでなくても (前半)   
                               加藤 享
[聖書] ダニエル書3章13~30節
  これを聞いたネブカドネツァル王は怒りに燃え、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを連れて来るよう命じ、この三人は王の前に引き出された。王は彼らに言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、お前たちがわたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か。 今、角笛、横笛、六絃琴、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もしも拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」
  シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。 そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  ネブカドネツァル王はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴに対して血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じた。そして兵士の中でも特に強い者に命じて、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴを縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込ませた。 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。 シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。
  間もなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。「あの三人の男は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。」彼らは答えた。「王様、そのとおりでございます。」王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」 ネブカドネツァル王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけた。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」すると、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは炉の中から出て来た。総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
ネブカドネツァル王は言った。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」こうして王は、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴをバビロン州で高い位につけた。
 
[] 信仰の証
 ダニエル書第1章では、捕囚になってバビロンに連れて行かれたダニエル達4人の少年が、宮廷の豊かな食事を食べず、野菜と水だけで3年間を過ごして、他のどの少年よりも秀でた青年に成長し、王のそば近くに仕えるようになった信仰の強さを学びました。第2章では、繰り返し見る夢に恐れをなし、心が混乱した王の諮問に答えて、その夢の意味を明快に解いたダニエルが、彼の前にネブカドネツァル王の方が思わずひれ伏して「あなたたちの神は、まことに神々の神、すべての王の主」と言わせています。そして今日の3は、ダニエルの3人の友人シャドラク、メシャク、アべド・ネゴの信仰の証です。
 
[1] 燃え盛る火の炉を畏れない信仰
 王は自分の絶大な権力を誇るために、都の近くの平野に高さ27m、幅2.7mの巨大な金の像を建て、楽器の合図とともに、家来はいうに及ばず、諸国、諸族、諸言語の人々も皆ひれ伏して拝むように命じました。拝まない者は直ちに燃え盛る炉に投げ込まれます。しかしシャドラク、メシャク、アべド・ネゴは拝もうとしませんでした。ユダヤ人でありながら高い地位についている彼らを妬む家来たちは、早速3人を中傷して王に訴えました。
 
 王は怒りに燃え、彼らを呼び出しで申しました。「もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」しかし3人は静かに きっぱりと答えました。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉の中から、わたしたちを 救うことができる神さまです。また王よ、あなたの手からわたしたちを必ず救ってくださいます。  たといそうでなくても、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
  
ネブカドネツァル王は血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じて、彼らを、上着、下着、帽子等の衣服を着けたまま縛り上げ、7倍も熱くした燃え盛る炉に投げ込みました。ところが間もなく王は驚いて立ち上がり、叫びました。「四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
 
王は燃え盛る炉の口に近づいて呼びかけました。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出て来なさい。」 炉の中から出て来た3人を調べましたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火の匂いすらしません。ネブカドネツァル王は言いました。
 
「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても 自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。わたしは命令する。いかなる国、民族、言語に属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きにされ、その家は破壊される。まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにはない。」 こうして王は、 彼らをバビロン州で高い位につけたのでした。
 
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは絶大な権力を誇る国王に向かって、「神さまは、燃え盛る炉の中から私たちを救い出すことがお出来になる方です。ですから王の手からも必ず救ってくださいます。しかしたといそうではなく、この身が焼き殺されるとしても、それは神さまがそうお考えになってなさることですから、それをよしとして受け入れます。神さまに対する私たちの信仰は変わりません」 と言い切っています。何と素晴らしい信仰でしょうか。私たちの多くは、目先の危機から逃れる手段として、神仏に手を合わせて、助けを祈り願います。かなえられなければ、信じるに値しない神仏、無力な神仏と見限り、他の宗教に移っていきます。どちらが真の信仰でしょうか。
 
[2] 日本人が神の名でやったこと
 去る15日は我が国の敗戦記念日でした。政府主催の全国戦没者追悼式での安部首相の式辞には、「加害責任についてふれていない」と新聞は大きな見出しで報道していました。
私は先週福岡新生教会の世界宣教リバイバル聖会に出席して来ましたが、そこで日本の 朝鮮支配で殉教を遂げた牧師の息子さんが書いた、両親が拷問された記録を読みました。
今日の週報の巻頭言に一部分を紹介しておきましたので、ぜひお読みください。
 
 ここでは、40年前によく読まれた安利淑さんの自伝「たといそうでなくても」(待晨社)の初めの部分をご紹介します。ダニエル書と丁度同じ事件が起こったと書き始めています。
 
 「あの時と同じように、日本人はその八百万(やおよろず)の神々を偶像化して、それを全東亜に強制的に広めるために、都市や郡や村々にまで一番高くよい場所に日本の神社を建てて、官吏たちに強制参拝させた。そして学校や官庁や各家庭に至るまで、神棚を配り、強制的に拝ませた。ついには教会の聖壇にまで神棚が置かれた。クリスチャンたちが礼拝する前に、先ず日本の神棚に最敬礼をさせるため、刑事を教会に配置した。日曜日になると各教会で刑事達が鋭い目を光らせて、信者の行動を監視していた。時には制服の警官が聖壇に上って見下ろしながら、煙草を口にくわえて目を光らせていた。
 
もし牧師が反対するか、不遜な態度に出たら、すぐに引き立てて行き、耐えきれない拷問にかけて半殺しにするのであった。そしてその家族には配給を全然やらずに飢えさせ、虐待を重ねていく。このために人心は乱れ、弱い者は日本人の犬となって、日本人よりももっと悪辣になり、強い者は殺された。一般民は日本人を悪魔のように恨み、呪うように  なった。―――気をつけ!まことの生き神さまであらせられる天皇陛下と、天照大神あまてらすおおみかみ)と、皇大神宮八百万の神に向かって最敬礼!」安さんは女学校の教師として集団参拝の時に最敬礼せず、彼女の逃亡生活が始まったのでした。
 
 この本の序文で酒枝義旗先生が、「信仰不信仰戦いこそ世界史最大のテーマだ」というゲーテの言葉を引用してこう述べています。「神は実在して歴史の歩みを導き、また信じる者一人ひとりの生涯を顧みたもう方であるのか、それともキリスト信者だけが抱いている一種の信念、または思想に過ぎないのか。この本は数千年前にアブラハムを選び導き給うた神が、今もなお変わることなく信じて従う者を、どんな時にも愛し、慰め、教え、導き、すべてを益にして下さる生ける神であることを、数々の体験を通じて証している。」
             (後半へ続く)

何を大切にして生きるか(後半) 2013年8月4日 ダニエル書1:1~21

2013-09-22
2013年8月4日川越教会
               何を大切にして生きるか(後半)
~ ダニエル書1章1~21節~
     加藤 享
 
 
[3] 神の栄光を現すために
 ここでこの点について、イエス・キリストの救いにあずかった信仰者の信仰を新約聖書から学ぶことにいたしましょう。ダニエルたちは、神ならざる神、すなわち偶像に先ず捧げられた王宮の肉類と酒で自分を汚すまいと決心しました。これに対して新約聖書では パウロが「世の中に偶像の神など存在しないのだから、偶像に供えられた肉かどうかで心配する必要などない」と言い切っています。(Ⅰコリント10:4)「多くの神々がいるように思われているが、私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出て、この神へ帰って行くのだ」とも言っています。(Ⅰコリント8:5~6)
 
しかし偶像に備えた食べ物は食べないとしている人の信仰も尊重して、その人をつまずかせないように、愛の配慮を勧めています。そして「わたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」とさえ言っています。(Ⅰコリント813)すなわち「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すために」(Ⅰコリント1031)を心がけていくのです。
 
ダニエルたちも自分たちの信仰の量りに従って真剣に祈り、あのような決断を貫きました。そしてイスラエルを滅ぼしたバビロン王の宮廷で、神さまの栄光を現すことができたのでした。「神さまの栄光を現すこと」それが大切なのですね。
 
 パウロは「偶像を礼拝してはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります」「あなたたちは悪霊の仲間になってほしくありません」(Ⅰコリント10720)と述べています。社寺の祭礼には、飲み食いし、踊り狂い、淫行に走る状況が日本でも見かけられます。大きな神社や寺の門前には、淫らな宿屋が立ち並び、参詣者が精進落しをすると言われています。それが真の信仰者の姿なのでしょうか。
 私はお酒については、若い時は、社交上すすめられれば飲むという立場をとっていました。しかし私が目白の副牧師時代に、学生センターの主事を代行していた時のことです。センターに泊まって管理人をしてくれていた実に真面目な大学生が居ました。新潟の出身で父親とよく酒を飲み合う育ちでしたが、上京してクリスチャンになり、断酒しました。ところが或る晩、ウイスキーをがぶ飲みして狂乱状態になり、ホールのガラスをたたき割り、床の上をのたうちまわりました。電話で通報を受けタクシーで駆けつけ、彼を押さえつけ12時間格闘しましたが、遂に119番に電話して緊急入院させました。私も負傷しました。失恋してたまらなくなり、夜の街に出て行ってウイスキー瓶を買ってきて、一気に飲みほしたのでした。私はこの好青年を狂人にする酒の恐ろしさに身震いしました。それからは飛行機に乗った時の食事で、白ワインを少々口にするだけに決めました。
 
 「青年よ、大志を抱け」で有名なWクラーク博士は札幌農学校に赴任する時、アメリカから持参したウイスキーと葉巻を海に投げ捨て、代わりに聖書をもって教育することを 黒田長官に強く求めて承認させました。彼が横浜の白昼の路上で酩酊狼藉を働く若者の姿を幾人も見かけたからでした。前途ある有能な若者を、あたら酒・たばこで滅ぼさせてはならないと、自分に強く言いきかせて、禁酒禁煙を通したのだそうです。
 
[] 主を畏れることが知恵の初め
 バビロン王は、国家に役立つ人材を、自分が滅ぼしたユダ王国の王族貴族の中からも見出そうとしました。「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年」と記されています。そして更に宮廷で3年間特別に養成訓練をして、選んだのでした。今日の世界でも社会が求める人材とは、全くこの通りで、変わっていないのではないでしょうか。ですから親たちはわが子を小さい時からこのような人間に育てようと、懸命に教育訓練しています。
 
 でもこれに対して少年ダニエルたちは、NOと叫び、異なる行動をしたのでした。その 原理は「自分を汚すまい」 神さまを畏れ敬う信仰から出た決断です。今日の礼拝の冒頭でも司式者に「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」(箴言910)の御言葉を読んでいただきました。
 
まさにダニエルたちは、王が求めなかった神を畏れる信仰を第一にしましたので、王が求める以上の健康、知恵、知識、理解力、判断力、行動力、更に霊感にも秀でた働き人に成長していきました。何を大切にして生きるか。神を畏れる信仰を第一にして生きること―― これが今日のメッセージです。
 
このメッセージを私たちは今日心に新たにいたしましょう。礼拝を第一にすることこそが、子育てに一番大切なのだと再確認いたしましょう。そしてそれを証して参りましょう。                              
                                   完
 

何を大切にして生きるか(前半) 2013年8月4日 ダニエル書1:1-21

2013-09-22
2013年8月4日川越教会
            何を大切にして生きるか(前半)
                       ダニエル書1章1~21節~
                            加藤 享
 
[]  三人三様の人生
 8月に入りました。5月から旧約聖書をイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書と読み進めてきましたが、今月の4回の礼拝はダニエル書を学びます。ダニエル書の舞台はユダ王国を滅ぼしたバビロン帝国の宮廷です。祖国の滅亡を同じく体験しながら、エルサレムで預言者として生きてきた老年のエレミヤは、エルサレムに留まり、やがてエジプトに移って死にました。エルサレムの神殿の祭司だった若いエゼキエルは、捕囚の人々の間で暮らし、ほどなく預言者として召され、預言活動を続けてバビロンで生涯を終えます。一方少年ダニエルはバビロン王とペルシャ王に仕えて宮廷で生涯を送りました。三人三様です。
 
[] 自分を汚さない信仰
さてダニエル書の第1章です。バビロン王ネブカドネツァルは、ユダ王国から優秀な人材を捕虜として連れてきました。彼らをしっかり教育訓練して、拡大していくバビロン大帝国の世界統治に役立てようとしたのです。特に王族・貴族の中からこれはと思う少年を選んで、特別に宮廷で3年間養成訓練をし、その中から自分の身近に仕える者を得ようとしました。その候補者の中に、ダニエル3人の友人も選ばれました。
 
この少年たちは、先ずカルデア風に名前を変えさせられました。さあお前たちはユダヤ人ではない。カルデア人になったのだぞというのでしょう。宮廷の食事を毎日与えられることになりました。エリートとしての特別扱いです。そしてカルデア人の言葉と文書(モンジョ)を学ばせられました。ところがダニエルたち4人は、宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心して、食べ物は野菜と水だけにしてほしいと侍従長に申し出たのです。
 
王に命じられていた侍従長は困りました。「お前たちの申し出を受け入れて、お前たちの顔色が悪くなったら、私の首が危うくなるではないか」「どうか10日間試してください。そして私たちと他の仲間と比べてみて、その上で決めてください」10日たってみると、  ダニエルたち4人の顔色と健康が、宮廷の肉類と酒を食べていた者たちよりも優れていました。そこで4人は肉類と酒を除いた野菜と水だけで3年間の養成期間を送ったのでした。
 
 主なる神の民としての契約の書律法には、清い生き物汚れた生き物とがきちんと区別されています。しかも生き物のについては特別な思いを持っていて、食べる場合の血抜きは徹底していました。日本人とは大分違いますね。そこで宗教の違う外国人と食事を共にしないユダヤ教徒との衝突が、新約聖書のあちこちに記されています。
 
 そればかりではありません。国王の食べ物は神に捧げてから食卓に運ばれたようです。バビロンの神に捧げられた肉類や酒を食べることは、その神の加護にあずかることを意味します。だからダニエルたちは、真の神ではない偽の神、すなわち偶像なる神に捧げられた宮廷のご馳走で、真の神から授かったこの体を汚すことは出来ないと思ったのではないでしょうか。さて私たちなら、どのような行動をとったことでしょうか。
 
 神さまはこの純真な信仰を喜び、侍従長に好意をもってこの少年たちに対応するように導いて下さいました。大国バビロンの侍従長です。相手はバビロンがひねり潰した小さな国ユダから捕えられてきた少年たちです。ごちゃごちゃ言わずに王様の命令に従えと𠮟りとばすことも出来たはずです。ところが自分の首をかけて、言い分を受け入れてくれたのです。これは見えざる神さまの働きというほかありません。しかも美酒美食の少年たちよりも健康にしてくださったのです。9節に「神の御計らいによって」と記されています。
 
[2] 神の守りと恵み 
この少年たちは、生まれ育った都で一家親族に囲まれて恵まれた生活を送ってきました。それが遠く離れた異国の地で捕囚として生きねばならなくなったのです。不安でいっぱいだったことでしょう。そこに思いがけない出世話が舞い込んできました。相手に気に入れられてチャンスをものにしたいと、誰しもが必死になるのではないでしょうか。ところがダニエルたち4人は、国王が示したよりも悪い条件で自分たちを扱うように申し出たのです。未だ少年です。私たちにこのような行動がとれたでしょうか。
 
 小林英二兄はその道の専門家ですが、栄養のバランスのとれた適度な食事こそ老人に至るまで全ての人にとって心身健やかに過ごす基本だと言われています。育ち盛りの若者が野菜と水だけでよいはずがありません。でもダニエルたち4人は、神ならざる神の加護のもとにある栄養たっぷりの食事を拒否したのでした。「自分を汚すまいと決心した」からです。
 
 思うに、彼らは自分の心も体も、神さまが深い御心をもって創り、この自分にお委ね下 さったものという信仰をしっかり持っていたのですね。自分の出世・栄達よりも神さまの 御心にかなう生き方をすることが大切だと思ったのですね。ですから神さまも、彼らの信仰に応えて、健康ばかりでなく、学問・知識・能力においても優れた若者に育ててくださったのでした。
 
17節をご覧ください。「この4人の少年は、知識と才能を神から恵まれ、文書や知恵についてもすべて優れていて、特にダニエルはどのような幻も夢も解くことができた。」 特にダニエルは「幻も夢も解く力」すなわち神さまからの霊感を豊かに受ける能力もいただいたのでした。こうして4人は3年間の養成期間を終えると、国王の諮問にも合格してそば近くに仕えることになったのでした。
 
私は運動能力の豊かな子供でした。走っても、相撲をとっても、泳いでも一番でした。小学校5年でツベルクリン反応が陽転し、過激な運動をしないよう医者から注意されたのに、平気で暴れ回って遂に肺結核を発病させ、6年生一年間休学の憂き目にあいました。敗戦後の東京の中学校は、教科書も食糧も不十分なので授業もろくに行われません。暇をもてあまして野球ばかりしました。そして野球部に入り選手生活に明け暮れしました。  一度休学した身体なのだから、過激な運動を控えろと医者や母に再三注意されましたが、自分の体の丈夫さを過信していたのです。そして高校2年の終わり、遂に喀血して入院、手術まで受け、足掛け7年の療養生活を余儀なくされました。
幸い中学3年の秋から教会に通い始めていましたので、次第に聖書の信仰が分かってきました。「この私も神さまによって創造されたもので、神さまのものなのだ。神さまから私に貸し与えられている。神さまの建てた家に加藤享の表札をかけて住まわせていただいている借家人なのだ。家を大切にして暮さなければいけない」と知り、脳天を一撃されました。自分の体は自分の思うように使えると思い込んでいたのです。その結果学業も友人から大きく遅れ、親に看病の苦労を掛けるこのような惨めな日々を送っているのです。自分の愚かさを痛感させられました。
 
それ以来「神さまから授かった自分の心と体を、神さまのものとして大切にする」ことを心に刻み付けて、今日まで働かせていただいています。それにつけてもダニエルたち4人の少年は偉いなーと感心させられます。彼らは自分の体を汚すまいと決心したばかりでなく、バビロンの地で出世する道が閉ざされて、惨めな将来を送ることを恐れなかったのです。神さまはそのような彼らに、恵みをもって応えてくださいました。合格祈願、出世・成功祈願のお札が神社やお寺に沢山見受けられます。でもダニエルたちのような信仰を心に しっかりと持った上で神さまの守りと導きを祈り求めている人がどれほど居るでしょうか。(後半に続く)

人を生かす言葉(後半) エゼキエル2:8-3:4 7/7

2013-07-10
201377日川越教会
        人を生かす言葉(後半)
              加藤 享

 
[2] 言葉かけの大切さ
 
 青年時代に、重い心身の障害児の施設「島田療育園」を見学しました。7才から13才位の子どもたちがベットに寝かされていました。自分で手を使えない。歩けない。しゃべることも出来ない。ただベットの上にごろんと寝かされているだけの子どもたちでした。部屋がシーンと静かで、子どもの部屋とは思えません。
 
 そこへ看護師さんがにぎやかに入ってきて、「○○ちゃん さあお散歩しようか」と一人の子をおんぶして、部屋の中を歩き始めました。すると今まで無表情だったその子が活き活きとした子どもの顔になりました。「今日は!お元気ですか」と看護師さんが、背中を傾けて、その子の顔を隣のベットの子の顔に近づけて、ご挨拶をさせました。すると二人ともニコッと笑うのです。
 
 看護師さんの話によると、いろいろ話しかけながら、ゆっくりご飯を食べさて上げるのを、子どもたちが一番喜ぶのだそうです。看護師さんの手記にこうありました。「この子たちでも、食欲だけでは満足しないものを持っている。この子たちが求めているのは、私たちの言葉かけ。心のこもったお相手なのだ。この子たちは人間らしく生きるために、この言葉かけを必要としているのだ」
 
 札幌の聾学校幼稚部の佐藤先生が「うちの子だって聞こえるよ」という本を出しました。それを読みますと、「同じ両親の許で育っている兄弟でありながら、耳に障害があって言葉の聞こえにくい子どもは、良く聞こえる子よりも知識が少ないばかりか、自分勝手で性格にゆがみのみられる場合が多い。どうして同じ親に育てられながら、そのように違ってくるのだろうか。大きな原因は、母親がどうせこの子は聞えないからと諦めて、言葉かけをしなくなってしまうからではないか」とありました。
 
 母親は、まだ言葉がよく理解できない赤ん坊に、おしめをかえ、乳を飲ませ、あやしたり、寝かせたりしながら、毎日何百回となく話しかけます。「育児とは、たゆまない我が子とのおしゃべり」と言われている通りです。赤ん坊は言葉を全く持たないで生まれてきます。しかし何かにつけて語りかけてくれる母親からの言葉が、体の中にどんどん注ぎ込まれることによって、やがて一杯になり、溢れ出るようにして、口から言葉が出るようになるのだそうです。
 
 こうして言葉を身につけていきながら知識を増やし、言葉で考え、言葉で自分の意志を伝え、言葉で決意して行動を起こすようになっていきます。そこで言葉が貧弱な人は、他の人とうまく交われないばかりでなく、思想も貧弱になり、実践力も乏しいと言われるようになっていくのだそうです。札幌聾学校幼稚部の先生は、「耳に障害があっても、耳のよく聞こえる子ども以上に言葉かけをして上げてほしい。そうしたら豊かな人格の人に育っていきます」と訴えていました。
 
[3]  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる
 主イエスはおっしゃいました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」 そこで先ず、私たち人間の口から出る言葉であっても、私たちが人として生きていく上で、言葉がどれほど大きな素晴らしい力をもっているかを、身近な例からお話しました。次に神さまと私たちとの関係に於いて、言葉を考えてみることにいたしましょう。
 
「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」――ここには、神さまは私たちに、言葉をもって語りかけてくださるお方だという信仰があります。今私たちが守っている礼拝を見てみましょう。賛美歌、祈り、聖書朗読、説教と、どれも言葉を媒介にした神さまとの交流で組み立てられています。特に聖書によって神の言葉が朗読され、その聖書の言葉の説き明かしとしての説教が、礼拝の中心にあります。皆さんは説教を通して、聖書の言葉を深く聞きとり、祈りや賛美歌で応答しつつ、この一週間を生きていこうとしておられます。
 
宗教によっては、荘厳な儀式供え物を捧げることを中心にした信仰とか、護摩をたいてお経を読みつつ祈りをささげる信仰、厳しい戒律を守り、修行善い行いを積んでいく信仰とかいろいろあります。その中でキリスト教信仰は、神さまが私たちにお語りになる言葉を、聖書から聞きとり、その言葉を食べて、養われ、生きていく 信仰と申せましょう。
 
これは「神は愛の神さまだ」という信仰に基づいているからにほかなりません。 
真実の愛は、愛する相手の自由・自主性をどこまでも尊重します。自分の思いを一方的に相手に強制し、自分の思い通りに相手を動かそうとする愛は、相手を真実に愛している愛ではありません。言葉で愛を伝え、言葉で愛の絆を結び、愛を育てていく――ここに真実の愛があるのではないでしょうか。
 
 神さまは、聖書の言葉に基づく私の説教を通して、今皆さん方お一人お一人に語りかけておられます。しかし皆さんはその語りかけを聞かない自由をお持ちです。また聞いても、それに応答しない自由をお持ちです。会社ではそうはいかないでしょう。上司の指示はしっかり聞かなければなりません。そして言われたことは必ず実行して、結果を出さねばなりません。
 
 しかし神さまは、私たちを真実に愛して下さっておられるので、私たちの自主性を尊重し、聞く・聞かない自由、応答する・しない自由という全き自由の中に私たちを置いて下さり、たとえご自分の期待とは違う行動をとったとしても、それなら勝手にしろと見限らず、変らない愛を持って、更に語りかけ続けて下さるのです。私たちを在るがままの私として受け入れて、愛して下さっているからです。そして私たちに正しい命の道を歩ませようと、語り続ける神さま。このように言葉をもって私たちと結びつこうとしておられる神さまこそ、真の愛の神さまではないでしょうか。
 
 その愛の神さまが私たちに語りかけてくださる言葉こそ、私たちに真実の道命の道を歩ませて下さる言葉です。パンだけで生きるのなら、他の生き物と同じです。神さまのお姿に似る者として造られ、この世界の管理を委ねられた人間として生きようとするのならば、神さまの口から出る一つ一つの言葉を聞いて生きていかなければなりません。
 
[] 神の言葉を食べて生きる
 預言者エレミヤ40年間にわたり、神の民に下される神の裁き、エルサレムの破壊、南王国の滅亡を預言し続けましたが、神の民は王をはじめ皆、聞きいれて悔い改めませんでした。そして紀元前597に、ヨヤキン王以下重立った人々が捕虜となってバビロン王国へ引き立てられて行きました。第一次捕囚です。その後に王にされたゼデキヤ王も、バビロンに反旗をひるがえして11年目の紀元前587に殺され、都のエルサレムは破壊され、王国は滅亡したのでした。
 
 エゼキエルはエルサレムの神殿に仕える祭司でしたが、第一次捕囚の一人として、バビロンへ連れて行かれました。そして5年目の年に、バビロンのケバル川のほとりで祈っている時、神さまから預言者として召されました。エゼキエル書12章に記されています。
 
 神さまはエゼキエルにお語りになりました。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」 エゼキエルの前巻物が差し伸べられました。その巻物には、表にも裏にも哀歌と、呻きと、嘆きの言葉が記されていました。「人の子よ、この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」
 
エゼキエルは口を開き、命じられるままに巻物を食べました。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」  彼がそれを食べると、それは蜜のように口に甘くなりました。 主は言われました。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。
 
 巻物とは、神の言葉が書き記されている巻物です。その神の言葉が、哀歌(悲しい言葉)と、呻きと嘆きの言葉だというのは、その神の言葉を聞いた者を、大きな悲しみと呻きと嘆きに溢れさせる厳しい言葉だという意味でしょう。しかし、聞く者をそのように苦しめる神の言葉を、残さずに全部胃袋に入れて腹を満たすと、不思議なことに蜜のように甘くなったのです。これは神さまの言葉を聞いて、悲しみ、呻き嘆いて悔い改めるならば、甘い蜜のような救いの喜びをいただけるということでしょう。
 
 こうしてエゼキエルは、祖国を失い、敵地で生きる同胞たちを、神の言葉を聞いて悔い改めさせ、蜜のしたたる人生へと導く預言者に召されたのでした。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる言葉によって生きる」 これは神さまがモーセに語られた言葉です。(申命記8:3) 神さまはその言葉を800年後の国が滅びるという危機のなかでエゼキエルを通して示されたのです。そして更に600年後にイエス・キリストを通して私たちに語りかけて下さいました。
人はパンだけで生きるものではありません。神さまの口から出る一つ一つの言葉を聞くことによって、生かされていくのです。私たちはこの大切な言葉を、今日新たな思いで聞きとりましょう。そして聖書を通して語りかける神さまの言葉を、しっかりと聞き、その命の言葉を食べて胃袋を満たし、今日を生きて参りましょう。            完
 

人を生かす言葉(前半) エゼキエル2:8-3:4 7/7

2013-07-10
201377日川越教会
         人を生かす言葉(前半)  
                加藤 享
 
[聖書] エゼキエル書28節~3章4節
  人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。 彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。
 彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」  わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。主はわたしに言われた。「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。
マタイによる福音書4章1~4節
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
 
[] 聖書を通読する恵み
  聖書は、旧約聖書39巻と新約聖書27巻、合計66巻の文書から成り立っています。内村鑑三は聖書研究の著述活動を通して、聖書の信仰を大勢の日本人に紹介した功労者ですが、こう述べています。「聖書66巻を通読してみて、我々は明白な一事の印象を得る。それは、救われる道はイエス・キリストによる以外、天下になしということである」
 
救い主キリストが来りたもうことを待ち望みつつ、歴史の中で生きた人々の信仰の証を書き記した旧約聖書。ナザレのイエスとしてこの世に来て下さった救い主と出会って救いにあずかった者の証しと、救い主が新しい天地をもたらして下さる終末の黙示録新約聖書です。私たちはとかく新約聖書に偏りがちですが、旧約聖書をも努めて読んで、イエス・キリストを信じる信仰を豊かにしていきたいものです。
 
私たちは聖書教育のカリキュラムに従って、教会学校で聖書を学んでいますが、今年は5月から11月までの7ヶ月間、旧約聖書を読むことになっています。それによって、イエス・キリストを救い主とする聖書の信仰が豊かにされることを期待しています。さて5月のイザヤ書、6月のエレミヤ書に続いて、今月は同じ預言書エゼキエル書です。エゼキエル書も48章ありますから、4回の日曜ではごく限られた部分しか学べません。この機会にご自分で一応通読なさることをお勧めします。
 
[] 人はパンだけで生きるものではない
 イエス・キリストは、救い主としての働きを開始される前に、荒野で40日間の断食の祈りをされました。その時、悪魔から三つの誘惑を受けました。その第一が「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」主イエスはお答えになりました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4:4)
 
 私が青年時代に私の牧師から繰り返し聞かされたお話の一つ。明治時代の日本のキリスト教会の指導者の一人植村正久牧師は、徳川幕府の旗本の家の出身でした。靖国神社近くの富士見町教会牧師を長く勤められました。名古屋で特別伝道集会の奉仕をされた時のことです。或る金持から大層立派な食事のもてなしを受けました。先生は出されたご馳走を喜んで全部平らげた後で、「しかし○○さん、貴方は毎日このようなご馳走を食べておられるのですか?貴方は豚だねー」と言ったそうです。
 
 もてなした挙句に「豚だねー」などと言われたら、普通の人なら腹を立てるところですが、さすがに大きな商売をしている人物です。「先生。それはどういう意味でしょうか?」と静かに質問したそうです。「そうでしょう。毎日うまい物をたらふく食べて満足しているだけなら、豚と変りないでしょう。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 神の口から出る一つ一つの言葉に養われてこそ、人間ではないでしょうか」と植村先生はおっしゃったそうです。
 
 その金持は「本当にそうだ」と心を打たれ、それから聖書を読み、教会に通い始めて、立派なクリスチャンになったそうです。「しかし、貴方は豚だねー」私もご馳走に満腹した時、この声が聞こえてくるような思いになる時があります。人間食べ物がなければ、どんな人でも死んでしまいます。生きていく上で食べ物は絶対に必要です。ですから主イエスも「人はパンで生きるものではない」とはおっしゃっていません。「人はパンでだけで生きるものではない」とおっしゃったのです。
 
 貧しい人々に食べ物を豊かに与えることで、世界を救うキリストであることを現したらどうかという声。この声は今でも強力に響いてきます。そこらにごろごろしている石を次々とパンに変えて配ったら、主イエスはたちどころに、世界中の人々から「世界を救う王の王」として崇められることでしょう。しかし経済が豊かになれば、それで人間は皆幸福になるかというと、そうではありません。日本でも経済が復興し学校の校舎が新しく立派になったら、生徒が荒れ始め、いじめ、不登校、自殺という深刻な教育問題が起こってきたのでした。経済的に豊かになるだけでは, 私たち人間は幸福にならないのです。
  (後半へ)

心で結ばれる新しい契約(後半)エレミヤ31:31-34 6/23

2013-07-10
 2013年6月23日川越教会
      心で結ばれる新しい契約(後半)
                加藤 享
[3] 自発性の大切さ
 以前のことですが、フィンランド政府が15年がかりで健康調査をしました。4045才の管理職を600人づつ2グループに分け、Aグループはタバコ、アルコール、糖分の摂取を抑え、毎日運動し定期検査や栄養調査を受けました。Bグループはただ定期的に健康調査に回答を書き込むだけで、自由に生活します。
 
さて15年たってから二つのグループを比較したら、大きな違いが現れました。心臓血管系の病気・高血圧・死亡・自殺と、すべての項目で何とBのグループの方が発生件数がはるかに少なかったのです。医師も保健省も驚いて、結果を直ぐに発表出来ませんでした。どうしたことでしょうか?
 
B600人は健康管理は自分でと突き放されました。そこで自然と自発的に食べ過ぎ、飲み過ぎ、過労、運動不足を注意しました。A600人も勿論自分で注意したでしょうが、医者や保健所が念入りに指導してくれるので、心理的にどこか依存的なところが出てきて、それが15年間に心身の抵抗力を弱める結果を生じたのでした。
 
健康で長生きするという目的も、保健所の働きかけでやるという動機が外にある人は、自分でよく注意するという動機を内に持つ人よりも、心も体も弱く、早死にが多かった――これは私たち人間にとって、自発性がどんなに大切であるかを教えてくれる貴重な調査でした。
 
[4] 十字架によってもたらされた新しい契約
 主イエスは十字架につけられる前の晩に、過ぎ越しの食事を弟子たちと共になさいました。それが主にとって地上での最後の食事となりましたが、食事の終わりにブドー酒の杯をとり、「この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度にわたしの記念としてこのように行いなさい」(Ⅰコリント1125)とおっしゃいました、
 
ここで主はエレミヤが預言した 新しい契約が、ご自分の血、すなわち十字架の死によって成立されると宣言されたのです。エレミヤが約600年前に預言した「その日が来る」とは、イエス・キリストが十字架で死なれる日だとおっしゃったのです。
 
 また、神さまが望んでおられることを、私たちが自発的に喜んで行い、神の民として輝いて生きるという新しい生が、十字架の死によってもたらされるとおっしゃったのです。
 
 「礼拝が7日以上も間が離れたら、心がとてももたない」という嬉しい言葉を聞きます。でも一方では「どうしても礼拝に出席する気持になれないから、しばらく休む」という言葉を聞くこともあります。信仰生活を送る意欲がなえていく時があるのです。
 
 でもユダペトロの違いを思い出しましょう。ユダは主イエスの逮捕の手引きをしてしまいました。ペトロは「何処までもお従いします」と誓いながら、その夜のうちに「イエスなど知らない」と三度も嘘をついて、我が身を守ろうとしました。ユダは後悔して自殺しました。ペトロは泣いて悔い改め、主につながり続けました。
 
 神さまは私たちの弱さ、罪深さをよく知っておられます。だからイエス・キリストを 救い主としてこの世に送って下さったのです。イエス・キリストが私たちの罪の裁きをご自分の身に引き受けて十字架にかかり、執り成しをして神の赦しを私たちにもたらしてくださいました。そのことをペトロは信じ、ユダは信じられなかったのです。
 
 どんな罪も私たちを神さまから引き離すものではないこと、私たちの現実がどのようなものであっても、私たちは神の民として、永遠の契約3240の中に立ち続けることを、イエス・キリストの十字架の血が保証しているのです。だからどんな罪によっても破られない契約が、十字架の死によってもたらされる――これを「わたしの血によって立てられる新しい契約」と主はおっしゃったのでした。
 
[] 神を喜ぶ新しい心
 主イエスは律法を二つにまとめられました。「全身全霊をこめて主なる神を
愛する隣人を自分のように愛する」(マルコ122931)しかし100のう
ちわずか1くらいしか出来ない自分を情けないと思います。自分を責め始めると、信仰生活から喜びがなくなっていきます。でも主イエスは一つしか出来な
かった愛を責めるよりも喜んでくださり、残りの99はご自分が引き受けてくださ
る救い主なのです。
 
 それが分かると、99やれなかった自分を責めるよりも、1愛せたことを喜べるようになり、神さまの前に安心して立ち続けることができます。神さまをこのように親密に覚えることが出来る心――これこそ新しい心ではないでしょうか。そしてこの新しい心を持つゆえに、新しい契約の中に生き続けることが出来るのです。神の律法を喜び自発的に守ろうとする日々が生まれてくるのです。
 
エレミヤを立てて新しい契約がもたらされるという言葉を聞かせてくださった神さまを賛美いたしましょう。私たちと新しい契約を結ぶために、イエス・キリストを救い主としてこの世に送って下さった、愛の神さまを喜びましょう。
 
そして、十字架にかかって死に、新しい心を持つ新しい人に私たちを生まれ変わらせてくださる救いを備えてくださったイエス・キリストの招きに応える者になりましょう。            
                              完
 

心で結ばれる新しい契約(前半) エレミヤ31:31-34 6/23

2013-07-10
2013年6月23日川越教会
        心で結ばれる新しい契約(前半) 
                   加藤 享
 
[聖書] エレミヤ書31章31~34節
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
 
[] 過去を振り返り
 米国のロスアンジェルス近郊で暮している長女かおりと孫のサブリナが夏休みで4年振りにやってきました。サブリナは近所の月越小学校3年1組に2週間の体験入学の機会を与えられました。水曜日が参観日でしたので、1時間目国語の授業を参観しました。小学校の教室に入ったのは30年以上も前のことだったでしょうか。教室自体が廊下との区切りがなく、オープン構造で驚きました。きっと教育内容も私たちの時代とは大きく変わっていることでしょう。
 
 私たちの時代には、学校の校門を入ると、玄関との中間に奉安殿という神社の神殿のような造りの建物があり、天皇皇后の写真と教育勅語が収められていました。誰でもがその前で帽子をとり最敬礼をしなければ厳しく叱られました。歴史の授業は初代神武天皇から昭和天皇まで124代の名前を暗誦することから始まりました。日本は2600年以上も続いてきた万世一系の天皇を戴く世界唯一の素晴らしい国なのだから、この天皇様を神と崇めて忠義な国民にならなければならないと繰り返し教えられました。
 
 時代は15年戦争のただなかで、台湾、朝鮮に続いて、満州、支那、東南アジア、太平洋に侵略を拡大して負け戦になり、遂に沖縄を占領され、原爆二発を投下されて無条件降伏。連合軍の占領支配を受けるに至りました。3ヶ月にわたる沖縄戦の悲劇については先ほどもDVDで学び、祈りを共に捧げたところです。
 
日本は破壊の中から新しい歩みを始めました。政治・経済・そして教育も大きく変わりました。その変化の象徴が戦争放棄を誓った平和憲法の制定でした。しかし戦後68過ぎますと、戦前の歴史観に基づく日本人としての誇りを持て、憲法を改正しろという政治家の声が大きくなってきました。彼らは15年戦争で犯した、他国民に対する数々の恐ろしい罪をどのように反省しているのでしょうか。
 
[1] 神の契約を破った神の民
私たちが今月学んできている旧約聖書の預言者エレミヤも、紀元前1000年に始まるダビデ王国が413年後に滅び、バビロンの捕囚となる歴史的悲劇を経験した一人でした。滅亡に向かう王国の末期に、神の裁きによる国の敗北・破壊を、人々の嘲笑、迫害を受けつつ、孤立無援の中で預言し続けたのです。そして歴史は彼の預言通りになったのでした。
 
旧約聖書に記された神の民イスラエルの歴史アブラハムに始まります。紀元前2000年頃のことで、彼は地上のすべての民の祝福の源となるという神の言葉に従って、文明の発祥地メソポタミア地方からパレスチナ地方に移住しました。三代目ヤコブの晩年に大飢饉が起こり、一族はエジプトに避難します。其処で人口200万の民族に成長しましたが、エジプトの王朝が変わり奴隷扱いを受けるようになりました、そこでモーセの指導の下にエジプトを脱出し、パレスチナに戻ってきます。その途中シナイ山の麓で、神の民として生きる契約書として律法を授けられました。
 
彼らは石の板二枚の記された律法(モーセの十戒)を大切に箱に入れて担ぎ、荒野の旅を40年続けました。そしてダビデ王朝が確立しエルサレムに都を定めると、神殿を建てて神の箱を安置し、朝に夕に礼拝を捧げるようになりました。しかし諸民族との交流が広がるにつれ、彼らの拝む神々をも一緒に拝む者が増えてきました。
 
神さまが結んでくださった契約書十戒が記された石の板が、エルサレムの神殿に安置されていることで、神の特別な民であるしるしのようになってしまい、神の民にふさわしく生きるようにと主なる神さまから与えられているとは思わなくなってしまったのです。こうして、神の民が神の民でなくなっていきました。
 
預言者が次々と立てられ、神の裁きの警告を語りましたが、悔い改めが起こりません。遂に国が滅びるという決定的な裁きを受けることになったのでした。しかし神さまはその時に、エレミヤに30章から33章に記されている言葉を残らず巻物に書き記すようにお命じになりました。それが裁きと滅びの後にもたらされる赦しと救いの預言です。
 
[2] 新しい契約とは
 今日の聖書の箇所をもう一度読み返してみましょう。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」
エジプトから救い出された時に結んで下さった、彼らを神の民とする契約を、彼らは破って、国が滅びるという厳しい裁きを受ける。しかし見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主はおっしゃるのです。その新しい契約とはどのようなものでしょうか。それは石の板に書き記して、箱の中に納められているだけのものではなく、人々の心にそれを記され、彼らの胸の中に授けられる契約なのだと言うのです。
 
契約の内容が変わるのではなく、律法の与えられ方が変るのです。モーセを通して与えられた時は、石の板に律法が刻まれて、モーセに手渡され、彼が大切に山から持ち帰って、民たちに読み聞かせました。しかし来るべき日に主なる神がイスラエルの家と結んでくださる契約は、「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す」ことにより、主が彼らの神となり彼らは神の民となるのだと、エレミヤは語りました。
 
「胸の中」とは原語は「内部」で新改訳は「彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す」フランチェスコ会訳は「彼らの内面にわたしの掟を置き、彼らの心にそれを書き記す」この箇所は新約聖書のヘブライ人への手紙8章10節にも引用されています。「わたしの律法を、かれらの思いに置き、彼らのにそれを書きつけよう」これを英語の欽定訳では「思い」をmind(知性、理性、考え)、「心」をheart(心、愛情、勇気)と訳しています。すなわちmindheartで、人間の人格的内面性を現している表現だということが分かります。
 
律法が外側から強制されるような与えられ方ではなく、私たちを内面から揺り動かす力として与えられるということでしょう。エルサレムの立派な神殿の至聖所の箱に安置されている律法に代わって、神の民一人ひとりの人格的内面に授けられる律法、これを新しい契約と言うのでしょう。
                         (後半へ)

何を大切にするか(後半) コリントⅠ 4:1-13 6/16

2013-07-10
2013年6月16日渋谷教会
何を大切にするか(後半)
             コリントの信徒への手紙一 4章1~13節
                                  加藤 享
 
 
[2]  世の屑すべてのものの滓(かす)
今日の聖書の箇所の最後13節で、パウロは「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのもののとされています」と言っています。随分ひどい表現ですね。私は神学校を卒業して51年になりますが、少しでもそのような扱いを受けたら、打ちのめされて、とうの昔に牧師を辞めてしまったことでしょう。パウロはキリスト教信仰をローマ世界に広く伝える偉大な 働きをしたのではなかったでしょうか。どうして自分を世の屑、滓と言うのでしょうか。
 
それは十字架のキリストの僕という徹底した自覚が言わせている言葉だと思います。そうです。十字架刑とは、この世の屑と言われる最悪の犯罪者が受ける刑罰だからです。ですからキリストの使徒パウロは、世の屑・滓扱いを受けたお方の僕に徹しなければと、 自分に言い聞かせて、十字架のキリストを宣べ伝え続けたのでしょう。
 
同じコリント教会への手紙一の第3章で、パウロはキリストという土台の上に、各自が金・銀・宝石・木・草・わらで自分の教会という神殿、礼拝共同体を建てていくと言っています。キリストが再び来られる終わりの日に火をもって仕事が吟味されます。だから火に焼かれ、燃え尽きて残らないような仕事をしないようにと、警告しています。では試練にあって燃え尽きてしまう仕事、木や草やわらで家を建てるとは、何を意味するのでしょうか?
 
カトリック教会の信者遠藤周作が、悲哀に満ちたかくれキリシタンについて、このように書いています。「我が身を守るために、毎年一回の踏み絵を役人たちの前で踏み、村に戻ると“おテンペンシャ”と呼ばれる鞭で自分の体を打ちたたき、こうして生きる悲しさを神に訴え、罪の赦しを乞いながら、それでも生き抜いてくれたからこそ、信仰が今日の私たちに繋がっているのではなかろうか」
 
このようなかくれキリシタンを、遠藤周作はキリストの土台の上に木や草やわらで家を建てた信者と言っているのでしょう。しかし3章15節をご覧下さい。パウロはその人でも「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と言っているのです。何故ならば彼らの 信仰も、キリストという土台の上に営まれた信仰だからです。そして十字架のキリストなら、そんな彼らをも必ずや受け入れてくださると、パウロは信じていたからではないでしょうか。
 
マタイ福音書20章に「ぶどう園の労働者のたとえ」があります。主人が夜明け、多分6時頃、町の広場で労働者を雇いました。9時、12時、3時にも広場に行って、立ちんぼしている人を雇いました。午後5時にも仕事にありつけなかった人を雇いました。日暮れの6時、夕方の1時間しか働かなかった人から順繰りに、皆同じ1デナリの賃金が渡されました。当然12時間働いた者たちから不満が出ました。実に不合理な話です。こんなことが毎日行なわれたら、朝早くから働きにくる労働者など居なくなるでしょう。ぶどう園はつぶれます。
 
しかしこの主人は5時まで仕事を待ち続けた人辛さ、悲しさを知っていたのです。彼も家族を食べさせるお金が必要なのですから。夜明けから暑い中を辛抱強く12時間も働いた人たちは勿論立派です。彼らのおかげでぶどう園の仕事がはかどりました。パウロの言葉で言えば、金・銀・宝石にたとえられる仕事をやったのです。でもイエス・キリストは、わらの仕事しか出来なかった人にも目を注ぎ、心を寄せて、受けとめくださる神さまの姿をお示しになったのでした。
 
一番弱い者、一番惨めな低い者を見過ごしにせず、寄り添って下さる神さまの愛、それをそのままキリストの十字架が現わして下さったのでした。だからパウロは、コリント教会の人たちにこう書き送ったのでした。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。 誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」(Ⅱコリント112930
 
[] キリストの教会で大切にされる心
日曜礼拝を最優先にして守って下さる教会員が核になって、真剣で豊かな礼拝 共同体が建て上げられていきます。役員として役割を担って下さる、或いは様々な委員として伝道活動を担って下さる教会員がいなければ、教会の証は社会に拡がっていきません。また献金によって財政を支えることがあって、牧師・スタッフの給料、建物の維持管理、集会や活動が実施出来るのです。このような教会員の働きがあって、渋谷教会という神の神殿、礼拝共同体が、建て上げられ、活動が拡大していきます。
 
しか私たちは、教会の土台であるイエス・キリストが、世の屑・滓といわれる十字架につけられたキリストであることを、しっかりと心に留めておく必要があります。キリストは世の屑・滓といわれる者に身を寄せ、心を寄せて生きられましたから、十字架で死なれたのでした。
 
私たちが生きているこの社会では、夕方に1時間しか働かなかった者に12時間働いた者と同じ賃金を払うなどという事は通用しません。しかしキリストの教会は12時間働けた者が、1時間しか働けなかった者に寄り添って、悲しみや喜びを共有することを、何よりも大切にする神の神殿でありたいものです。ここに教会の一致の要があるのです。
 
そのために牧師としての私も、パウロと同じように、自分が弱い者、愚かな者、侮辱される者であって当然だという自覚をもって、教会にお仕えしなければと改めて反省させられました。
 
牧師就任式でのお祝いの言葉に戻ります。「牧師先生を中心にして教会が発展していきますように」教会の一致の要は牧師ではありません。コリント教会の創設者パウロは申しました。教会の土台は十字架のキリスト。ですから教会一致の要も十字架のキリストです。牧師は船長ではありません。船底で懸命に船を漕ぐ漕ぎ手の一人に過ぎません。この説教を準備しながら、私自身がこの自覚を新にさせられました。このような機会を与えてくださった渋谷教会の皆さまに、心から感謝いたします。
 
パウロはコリント教会に書き送りました。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(コリント二1129
 
教会内ばかりでなく私たちが暮す社会ででも、この心が何よりも大切にされなければと思います。そしてそれがキリストを信じる私たちの責任ではないでしょうか. 
                               完 

何を大切にするか(前半) コリントⅠ 4:1-13 6/16

2013-07-10
2013年6月16日渋谷教会
何を大切にするか(前半)
        コリントの信徒への手紙一 4章1~13節                                               加藤 享
 
[] 牧師の役割
或る教会で他の教派から移ってきたけれども、会衆主義のバプテスト教会はどうしても馴染めないと言って、去って行かれた方がいました。「神の僕として特別に召された牧師先生も、長い信仰生活を忠実に送ってきた自分も、昨日バプテスマを受けて教会員になったばかりの人も、教会総会では皆同じ一票で事を決めるのはどうしても納得がいかない。先ず牧師先生が、その次には自分のような信仰暦の長い信者の意見が尊重されて当然ではないか」と言うのです。
 
また或る教会の牧師就任式で近隣教会の代表が「牧師先生を中心にして教会が発展していきますように」と祝辞を述べておられました。牧師先生の霊的指導の下に教会員が一致協力して伝道の進展をはかるというのでしょうか。たしかに牧師のいない教会では、役員同士の意見がばらばらで後任の牧師招聘すらもスムーズに決まらないという例を耳にします。教会の一致は牧師が要(かなめ)なのでしょうか。「神の僕として特別に選ばれた牧師先生の権威」とは何でしょうか。
 
[1] 船底で船を漕ぐ務め
コリント教会では、勝手にパウロを担ぎ上げたり、アポロを担ぎ上げてグループを作り、張り合うことで教会の一致が損なわれていました。そこでパウロは3章では、パウロもアポロも主がお与えになった分に応じて、植える、水を注ぐという働きをした奉仕者に過ぎず、成長させてくださる神こそが大切だと言いました。
 
そして今日の4章では、先ずパウロは「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と述べています。
 
仕える者」と訳された語は、本来は「下の漕ぎ手」です。昔の地中海で活躍した大型の軍艦ガレー船には櫓を漕ぐ場所が二段、三段の階層になっていました。そして船尾に座をしめるリーダー格の男が太鼓を打つように規則正しく板木を叩くと、各階層の奴隷たちがその音に合わせて一せいにオールを漕ぎます。単調でしかも 全力を振り絞って漕がなければならない過酷な労働です。その下層の漕ぎ手を「下の漕ぎ手」と言い、「人の下で働く者」「仕える者」を指すようになりました。
 
パウロはコリント教会を創設した自分も、後に来て奉仕したアポロも、キリストの前では最下層で船を漕ぐ奴隷だと言います。また神の秘められた計画、すなわちこの世の知恵をもってしては悟ることの出来ない、神の知恵である十字架のキリストの福音を委ねられた管理人だと述べています。この管理人も主人の家の管理を任された僕で、身分は奴隷です。主人に対して絶対的な忠実さが求められていました。
 とにかくパウロ曰く、牧師先生は船長ではなくて、船底で忠実に船をこぐ漕ぎ手の一人なのですね。あるいは主人の家の管理を任された奴隷なのですね。
 
そう自覚するパウロは、コリントの教会と自分やアポロとを対比させて、あなた方はキリストを信じて優れた者、賢い者、強い者になり尊敬されているが、私たちはキリストのために愚か者となり、弱く侮辱されている。あなた方は勝手に大金持ち、王様になっているが、神さまは私たち使徒を、まるで死刑囚のように世界中の見世物になさったと言っています。
 
ローマではネロの迫害の時、大きな円形競技場に集まった見物人の前で、クリスチャンたちは十字架刑にされたり、飢えたライオンの餌食にされて食い殺されました。 ペトロもパウロも、そのような殉教の死を遂げたと言われています。どうしてパウロは、使徒であり、コリント教会の生みの親である自分を、そのように弱い、惨めな者として強調したのでしょうか。
 
それはパウロがキリストに仕える者だからなのです。パウロは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外何も知るまい、と心に決めてコリント伝道を始めた」と2章で述べました。パウロが絶対の忠実さで仕える主人のイエス・キリストは、十字架につけられて人々の嘲笑のなかで死んでいかれた救い主なのです。
 
[2]  弱さと愚かさの究極に救いを見る信仰
日本人に人気が高い水戸黄門の諸国漫遊記では、悪人どもとの最後の大立ち回りの最中に、格さんが指し出す印籠に記された葵の紋所・天下の副将軍の威光で「静まれ、静まれ」と一同を平伏させて悪を成敗します。この痛快さこそまさに正義だと、皆は納得するのです。
 
人々はキリストに対しても「救い主なら今十字架から降りてこい」と葵の紋所を求めました。ところがイエス・キリストは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら、人々の嘲笑の中で死んでいかれました。水戸黄門と比べるならば、無残な敗北者にしか見えません。しかし死刑を執行したローマ兵隊長は、その敗北者を目の当たりにして「本当に、この人は神の子だった」とつぶやいたのでした。(マルコ1539
 
越後のちりめん問屋のご隠居さんは、葵の紋所で天下の副将軍の威光を現わします。しかしイエス・キリストは十字架の上で絶叫しながら息を引き取っていかれたお姿で、神の子であることをお示しになりました。このキリストを救い主と信じる私たちの信仰は、弱さと愚かさの究極に、神さまの無限に深い憐れみと救いを見ていく 信仰なのです。ですからパウロは、十字架のキリストと同様に自分が弱い者、愚かな者、侮辱される者であって当然だと、自覚していたのでした。
 
ところがコリント教会の人々は、パウロとアポロを比べて、どちらがより優れているかを自分たちで判定して、片方を持ち上げ、片方をないがしろにして、徒党を組みました。これに対してパウロは、コリント教会の人たちは、親分を選んで担ぎ上げようとしているのだから、自分たちは子分だと思っているのだろうが、それは違う、逆だと言っています。
 
そうです。入社試験の例を考えて下さい。応募者と、その優劣を判定する試験官とどちらが上でしょうか。合格者がどんなに優れているとしても、そういう彼を選ぶ試験官の方が経験・知識が上なのです。ですからパウロをアポロより優れた牧師だと判定する、或いはその逆にアポロをパウロより優れた教師だと判定するあなた方は、パウロやアポロよりも信仰が豊かになったのであり、勝手に信仰の大金持ち気分王様気取りを演じていることになるのだと、指摘したのでした。
                 (後半へ)

神に呼び出された青年(後半) エレミヤ1:1-13 6/2

2013-07-10
201362日川越教会
神に呼び出された青年(後半)
                    加藤 享
 
(前半より)
 
[2] 何が見えるか
 
私や山下先生、喜美子や伊藤三恵子さんは、若いときに目白ヶ丘教会で熊野(ユヤ)清樹牧師の説教を聞いて育ちました。先生は色々なエピソードを説教の中で繰り返し語られました。「もう何回目だと指折り数える人も居るだろうが」とおっしゃで語られましたから、今でも鮮やかに甦ってきます。そのなかの一つです。
 
先生が熊本県人吉の小学校時代のこと、習字の時間に受持ちの先生が、柱によりかかりながら外を眺めていました。突然一人の子を呼んで窓のそばに立たせ「何が見えるか」と尋ねました。その子は首をかしげるだけでした。「もうよい。席に戻りなさい」 次の子が呼ばれました。「何が見えるか」その子も首をかしげるだけでした。
 
習字を書いていた子供たちは俄然興味をそそりました。幾人目かに「熊野」と呼ばれました。先生の傍らに立って外を眺め渡しました。「何が見えるか」いつもながらののどかな田舎の風景です。特別変った様子はありません。ところが校庭と地続きの農家の縁先で、子守さんが赤ん坊を抱きながら、こくりこくりと舟をこいで居眠りをしているのに気付きました。赤ん坊を縁側から下に取り落としたらケガをします。「先生、危ないです」「そうか、行って起こして上げなさい」熊野少年はとんで行ってその子守さんを起こして、教室に戻って来たそうです。
 
「何が見えるか」「先生、危ないです。」「そうか、行って起こして上げなさい」 皆が皆、危ないと気が付くわけではありません。ですから危ないと気付く心は天与の才の一つ、神さまから与えられた賜物gifyt)ではないでしょうか。あめんどうの枝を見ながら、預言者に召されたエレミヤと神さまとの会話と重なるお話ですね。
 
熊野先生はお父さんを早く亡くしたので、中学校に進まず高等小学校を出て、内務省の衛生試験所で働き始めました。しかし試験管をふるっている毎日の生活が、何か他人の仕事をしているような気がして、仕方がありません。「自分でなければならない仕事があるはずだ。」こうして牧師になる道を神さまから示されて、東京に出て中学2年に編入し、神学校への道を歩み始めたのでした。
 
ああ、わたしは若者にすぎませんから」と尻込みするエレミヤ中にも、既に生まれる前から、「シャーケード」から「歴史を見張っている神さまの眼差し・ショーケード」に気付く賜物が、授けられていたのでした。主は手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、言われました。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
 
神さまからこう言われてしまうと、エレミヤは返す言葉がなくなってしまいました。小さな村の祭司の息子です。どれ程の学歴の持ち主か。都の神殿や王宮で語るとすれば、貴族出のイザヤとは違い、軽くあしらわれる惨めさを味わうことになるでしょう。彼の尻込みも当然でした。
 
ところが神さまはおっしゃいます。「わたしがあなたを誰のところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」 そうです。何を語るのか。自分が考えたことを語るのではありません。神さまが語れとお命じになる言葉をそのまま語ることが、預言者の任務なのです。
 
混沌とした時代の流れのなかで、ただ自分の思いのみで安楽に毎日を送っている多くの人々。神さまはどのように歴史を導こうとしておられるのか、その言葉を語る預言者に聞き従うことこそが、私たち人間にとって最も大切ではないでしょうか。
 
[結] 聖書から神の言葉を聞きとる
日本が戦争に負けた時、学校で教科書の間違いを、先生の指示で、習字の墨と筆で黒く塗りつぶす作業をさせられました。こんなに間違っていたことを学んでいたのかと、愕然としました。時代が変わろうと墨で消されることのない、本当の真理を学ばなければならないという思いが、心の底からふつふつとこみ上げてきたことを、今でも忘れません。
 
軍人になって天皇陛下に命を捧げるという人生の目的を失い、新しい目的をつかもうと、本を読み漁りました。聖書を手にしました。その聖書が私を惹きつけました。しかし分からないことだらけ。友人の教会に連れて行ってもらいました。説教を聞きながら聖書を読んでいくうちに、私に対して神さまが呼びかける言葉として、聖書に向かい合うように導かれました。聖書から神さまが私に語りかけておられる言葉を聞き、神の御心に従って生きる信仰を与えられました。神さまは、私を牧師にお召しになりました。
 
どう生きたらよいか迷う時に、私たちは正しい判断を示す言葉を必要とします。その言葉を聞いて考え、自分の言葉で語りながら、自分の考えがまとまっていきます。そして言葉で決意を表明し、行動を起こします。このように言葉で私の人格が形成され、言葉で私の生き方が綴られていくのです。人間の言葉を聞くことによってすら、私たちは人間として成長していくのですから、神さまの正しい命の言葉を聞くことが、私たちにはなおさら大切ではないでしょうか。
 
私は聖書を読みながら、今どう生きるべきかを示す神さまの言葉を聞き取って従う生活を続けて今日に至りました。本当に幸いな人生を歩んで参りました。特に聖書から聞きとる神さまの言葉をお取次ぎする牧師の務めを長くさせていただいておりますことを、心から感謝しています。
 
「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とエレミヤに語られた神さまは、皆さんお一人ひとりにも語りかけておられるのです。
 
 皆さんは、その語りかけをお聞きになっていませんか。今日のスケジュールの中でどうすることが、神さまの御心でしょうか。どちらを選ぶべきか、何をなすべきか、聖書を読みつつ、祈って御心を聞いて参りましょう。神さまの霊、聖霊が私の心に働きかけて、神さまの言葉を、聖書を通して示してくださいます。
 
 私たちの人生の違い――それは一人ひとりに対する神さまの期待、ご計画の違いです。貴方でなければならない仕事、貴方にして欲しいと神さまが願っておられる任務を、各自が信仰をもって聞きとり、神さまの御心にあるご計画を、実現させて参りましょう。     完

神に呼び出された青年(前半) エレミヤ1:1-13 6/2

2013-07-10
201362日川越教会
神に呼び出された青年(前半)
                     加藤 享
 
[聖書]エレミヤ記1章1~13
 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。
  主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」 しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。   見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
 主の言葉がわたしに臨んだ。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」主はわたしに言われた。「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと、見張っている(ショーケード)。」 主の言葉が再びわたしに臨んで言われた。「何が見えるか。」わたしは答えた。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」主はわたしに言われた。北から災いが襲いかかる、この地に住む者すべてに。」
 
[] 預言者エレミヤの登場
 私たちは、5月に旧約聖書の預言者イザヤを学びましたが、今月はエレミヤの予言を学びます。エレミヤ書の書き出しによれば、彼は南王国の都エルサレムから北東56km離れた小さな村アナトトに暮らす祭司ヒルキアの子です。北王国がアッシリアに滅ぼされてから約68年後の紀元前650年頃に生まれたと言われています。そしてヨシア王(BC640 609)の治世第13年(628)に神さまから預言者に立てられました。イザヤよりより114年程後輩の預言者、しかし釈迦よりも100年近く昔の人です。聖書の世界は仏教よりもずっと古いのですね。
 
 1章の3節によりますと、彼はゼデキヤ王の治世11年(587)にエルサレムの都がバビロンによって落城し、南ユダ王国が滅び、主だった大勢の人々が捕囚となってバビロンに連れて行かれる迄、預言者の活動を続けたとあります。(13)しかし実際には、その後エジプトへ連れて行かれ、そこでも予言活動をして死にました。国が滅びる激動の時代に、50年近く神さまに用いられた預言者です。
 
[1] エレミヤの召命
新共同訳聖書では、1章4節の前に「エレミヤの召命」という小見出しがついていますね。この召命という言葉は、日本の代表的な辞典「広辞苑」(岩波1955年版)、また新しい「実用新国語辞典」(三省堂1987年版)には記載されていません。1989年に講談社から出た「日本語大辞典」に至ってやっと登場します。そこにはこう記されています。「キリスト教用語。神が特定の人を選んで一定の仕事をたくすこと。またその仕事、vocation
 
 このように召命という言葉は日本固有の文化にはなかったものでキリスト教用語 なのです。聖書には、言葉をもって語りかける神さまと、その語りかけに応答して生きた人間、又それを無視して生きた人間の人間模様が歴史を通じて記されています。
 
日本語大辞典によりますと、召命とは、1)神が選ぶ 2特定の人に 3)仕事をたくすという、三つの要素から成っていると説明されています。これをエレミヤ書1章に適用すると、「1)主なる神がアナトトの祭司ヒルキヤの子エレミヤを選んだ 2)主は彼を生まれる前から預言者に決めていた。3)主は彼に諸国民・諸王国に対する預言者の仕事を託した」ということになります。
 
エレミヤの冒頭の言葉に注目しましょう。「主の言葉がわたしに臨んだ。わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」
 
この私は偶然にこの世に生まれて、今生きている者なのでしょうか?居ても居なくてもかまわない者、つまらない存在なのでしょうか?こんな者でも親が懸命に愛し、育ててくれた、だからくだらない生涯を送っては申し訳ない、せめて親の恩に報いなければ、と生きる意義を説く人もいます。否、違います。私は偶然この世に現れたのではありません。私を形造り、誕生させ、この世で生きる者にして下さったお方がいらっしゃる。世界の創造主、神さまがいらっしゃる――これが聖書の信仰です。
 
私を母の胎内に宿し、形造り、育て、この世に誕生させた神さまは、私の生涯にご自分の計画、期待を託して、私を誕生させて下さった。私はその期待を担って今を生かされている――これが青年エレミヤが聞きとった神さまの言葉、「母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」だったのです。
 
ではエレミヤはこの召命を何時、どのようにして明確に受け取ったのでしょう。内村鑑三はエレミヤを「余の特愛の預言者」と呼んでいますが、こう推測しています。「多分、青年エレミヤがアナトテ付近の郊外を独り歩みし時、あるいは古きオリーブ樹の下に独り黙想にふけりし頃、彼の心琴に幾度となく触れし、細きかすかな声があったろう。彼は幾度となく打消さんとせしが、しかしその声は去らなかったであろう。彼は遂に彼の預言者として神の預定されし者であることを、信ぜざるを得ざるに至ったのであろう」
 
 内村がこの様に自然を逍遥する青年の姿を推測したのは、11112節の言葉によると思われます。「エレミヤよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」 「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと 見張っている(ショーケード)。」
 
 「アーモンド(シャーケード)(口語訳では「あめんどう」)は、パレスチナではすべての木に先駆けて1月の終わりか2月の初めに花をつける木です。私たちが長く暮した北海道の札幌でいえば、雪がまだ積る3月末に、山の麓に咲くコブシの花にあたるでしょうか。万物が眠っている真冬のさなかに、早くもあざやかな花を咲かせる準備を始める木の細い枝に現れる変化を、エレミヤも観察していたのです。
 
混沌とした歴史の中で、神さまが独り、ご自身の裁きと救いの御業を行われる時期を見計らっておられます。神さまは自然の変化を鋭く観察している青年エレミヤに注目されました。そして御自分がこれから成し遂げようとしていることを、この若者に お示しになったのでした。再び神さまは言われます。「何が見えるか。」エレミヤは答えました。「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」これは、北の強国の攻撃によって、南王国も滅ぼされる災いが襲いかかってくるという予告でした。
                (後半へ)
« Older Entries