川越:宗教

健康教室 10月10日

2015-09-23
    第21回 日本バプテスト川越キリスト教会
           健 康 教 室

平成27年1010(土)

午後:30~5:00 参加無料
場所:日本バプテスト川越キリスト教会
   川越市石原町1-32-3(☎049-224-6283
          問い合わせ:☎049-224-6433(小林)
             
  1. 健康講演 (午後1:30~3:00)
     認知症になったらどうしよう、と不安になっている人が多いと思われます。10年後には65歳以上の5人に1人が認知症と言われています。認知症の中でも特に多いアルツハイマー病についてその原因と予防などについて詳しく解説します。
    「アルツハイマー病になる人、ならない人」
                  健康教育士:小林英二 氏
                        
                  休憩(3:00~3:15)
     
    2.運動実技(午後3:15~4:15) 
    運動ができる服装、タオル、飲み水を用意して下さい。認知症予防に関わる運動を中心に実技指導をしていただきます。
     「アルツハイマー病を予防する運動」
            埼玉医科大学保健医療学部・助教

                        丸谷康平 氏

                                      

                
         懇親会 (午後4:15~5:00)
            お茶を飲みながら、自由に懇談します。
                    (参加は自由です)
     

健康教室 2015年1月17日

2015-01-13
第19回 日本バプテスト川越キリスト教会 健康教室のご案内   どなた様もお気軽においでください
     日時 1月17日(土) 13:30~16:30  場所 教会会堂    参加無料
①健康講演 13:30~14:30 「老化を防ぐ食生活のあり方」 管理栄養士 中神裕子 氏
  加齢とともに老化は加速されます。しかし、食生活を工夫することで老化を遅らせることができます。
  老化の原因とされる酸化と糖化について解説していただき、
  それを防ぐための具体的な食生活のあり方についてお話しいただきます。
         休憩 14:30~14:45
②運動 14:45~15:45 「シニアのための転倒予防体操」 体操教室指導者 三戸まさみ 氏
  椅子を使って転倒予防の体操を行います。
  転倒し骨折すると寝たきりになるリスクが高まります。
  運動ができる服装、タオル、飲み水を用意してください。
         懇親会 15:45~16:30 お茶を飲みながら自由に歓談します。
                   皆様のお越しをお待ちしています

性同一性障害を生きる

2014-10-18

性同一性障害を生きる

2014-10-18

性的少数者:イエスならどうするだろうか?

2014-10-17

性的少数者:イエスならどうするだろうか?

2014-10-17

無料相談窓口

2014-10-07

無料相談窓口

2014-10-07

このホームページを新しくしました

2014-09-23
このホームページを新しくしました。
 
続きはこちらから:http://www.kawagoe-bc.sakura.ne.jp 宜しく。

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2014-09-23
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こなかのぞみ ミニコンサート 8月17日

2014-08-13
       2014年8月17日(日)1330~
    日本バプテスト川越キリスト教会/会堂
こ な か の ぞ み
mini  concert
親子でご参加ください。入場無料
 
童謡 ♩兎のダンス ♩いぬのおまわりさん  
  わらべうた ♩おおなみこなみ ♩ととけっこー
      讃美歌 ♩空の鳥を見よと ♩母の賛歌
                           ほか
           イメージ 1                                                                                                                                  こなかのぞみ プロフィール    
札幌のモイワ山原生林のふもとの牧師館に生まれ、父親が園長の幼稚園を庭とした。幼稚園のホールのピアノを弾き、歌うのが無上の喜びの子ども時代でした。広島エリザベト音楽大学音楽教育科入学。副科でパイプオルガン、声楽を学ぶ。卒業後オペラとスタンダードの歌手として活躍。長女出産を機に独自の育児コンセプトを展開。保育士対象の講演とパフォーマンスを各地でしています。唱歌、わらべうた、ポップスなどジャンルにかかわらず歌の魂と日本語の歌詞の美しさを大切にしています。
広島市立広島特別支援学校教諭
 

こなかのぞみ ミニコンサート 8月17日

2014-08-13
       2014年8月17日(日)1330~
    日本バプテスト川越キリスト教会/会堂
こ な か の ぞ み
mini  concert
親子でご参加ください。入場無料
 
童謡 ♩兎のダンス ♩いぬのおまわりさん  
  わらべうた ♩おおなみこなみ ♩ととけっこー
      讃美歌 ♩空の鳥を見よと ♩母の賛歌
                           ほか
           イメージ 1                                                                                                                                  こなかのぞみ プロフィール    
札幌のモイワ山原生林のふもとの牧師館に生まれ、父親が園長の幼稚園を庭とした。幼稚園のホールのピアノを弾き、歌うのが無上の喜びの子ども時代でした。広島エリザベト音楽大学音楽教育科入学。副科でパイプオルガン、声楽を学ぶ。卒業後オペラとスタンダードの歌手として活躍。長女出産を機に独自の育児コンセプトを展開。保育士対象の講演とパフォーマンスを各地でしています。唱歌、わらべうた、ポップスなどジャンルにかかわらず歌の魂と日本語の歌詞の美しさを大切にしています。
広島市立広島特別支援学校教諭
 

素晴らしい決断(後半) マタイ1:18-25 12/16

2013-07-11
20121216日川越教会
素晴らしい決断(後半)
                                                        加藤 享
(前半より)
[2] 単なる夢大切な夢との区別
では最も信じ難い立場にあるヨセフが、悩んだ末に下した決心を、どうして変えることが出来たのでしょうか。夢に現れた主の天使の言葉を、神さまからの言葉、神さまのご命令と信じて聞き従ったからです。でも夢ほどあやふやなものはありません。大体目が覚めると殆ど正確には覚えていないのが夢です。夢はすぐに消えてしまうはかないものの代表のように言われています。ですからヨセフは、「変な夢を見たものだ」と言いながら打ち消してしまうことも、出来たはずです。
 
しかしこの時のヨセフは、眠りから覚めると、苦渋の決断を変えて、天使が命じたとおり、マリアを妻として迎え入れ、父親として、生まれた子に「イエス」と名付けたのでした。彼は夢のお告げを、神さまからの語りかけとして受け取ることが出来ました。そしてそのお告げ通りを実行したのでした。ヨセフは単なる夢大切な夢とを、どうやって区別して決断したのでしょうか。
 
    ダビデの子ヨセフ
天使のこの呼びかけ「ダビデの子ヨセフ」は、ヨセフに自分が何者であるかを自覚させる言葉です。旧約聖書の預言者は「ダビデの家系から救い主が出る」との神さまの約束を語ってきました。ヨセフはたとえ貧しい村大工であろうとも、ダビデの家系に連なる者です。神さまがヨセフとその婚約者マリアを用いて、救い主をこの世界に送ろうとなさったとしても、少しもおかしいことではありません。天使の語りかけは神さまの約束に合致しています。その事実を示されて、ヨセフは本気になって神さまのお告げに心を向けたのではないでしょうか。
 
    恐れず妻マリアを迎え入れなさい
妻マリア(新改訳聖書「あなたの妻マリア」の方が原典に忠実です)――マリアは未だ婚約者です。婚約期間中なのですから婚約解消しても許されます。ところが天使はマリアを「あなたの妻」と言いました。すると彼はマリアの婚約者ヨセフではなく、夫ヨセフなのです。なぜ縁を切ろうとしたのか?式を挙げない前に子どもが出来たと言われて、正しい男としての面目を失うからです。それよりも何よりもマリアに裏切られたのではないかとの疑いと不信感は深刻です。身に覚えのない子の父親にさせられるなど、お目出度いにも程があります。でもこれらは皆、ヨセフが自分の立場ばかりにこだわる姿です。
 
 マリアはどうなるのでしょうか。たとえ石打ちの死刑を免れたとしても、不義の女とレッテルをはられて独りで子どもを産み、育てていかなければなりません。どんなにつらくて厳しい人生が待ち構えていることでしょう。生涯を一緒にと誓い合ったマリアを独りそのようにさせながら、自分だけ安閑として生きていこうとしている。それでよいのか?お前の愛はその程度のものだったのか?
 
しかもマリアは「民を罪から救うお方の母となる」という大きな役割神さまから授かったと言います。それならば彼女を、夫としてしっかり支えていくことこそ、マリアを愛する男の生き方です。そしてそれがヨセフ自身にとっても、生き甲斐のある人生を送らせるでしょう。天使の助言は、愛をもって意義ある人生を送るという観点から、行動を決めなさいというものだったのでした。
 
その子をイエスと名付けなさい
 イエスとは、助ける、救うという意味をもつ名前です。神さまが自分の民を罪から救うために、マリアによってこの世に誕生させるお方なのです。この誕生によって預言者が語ってきた神さまの約束が実現されていくのです。ヨセフよ、マリアから誕生する子をイエスと名付けて父親となり、マリアと共にこの子を育てて、救い主として世に送り出す役割を果たして欲しいという、神さまの語りかけだったのでした。
 
 そこでヨセフはこの夢を、はかない夢としてではなく、神さまからの大切な語りかけと受けとめて、お従いすることにしたのでした。
 
[3]良い助言者と出会うには
その後のヨセフの生きざまを見てみましょう。彼は翌朝眠りから覚めると、マリアを妻として迎えました。そしてやがて生まれた子にイエスという名前をつけました。父親の役目です。ヘロデ王がベツレヘム一帯の二歳以下の男の子を殺した時、彼は夢に再び現れた天使の指示にすぐさま従って、マリアとイエスを連れてエジプトに逃げました。ヘロデが死ぬと、また天使の指示に従って、ナザレに戻ってきて、イエスを育てました。
 
聖書はイエスの成長の様子をこう記しています。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:40、52)体も頭も心も調和のとれた成長ぶりです。これはヨセフとマリアの家庭の反映にほかなりません。イエスが成人しますと、ヨセフは歴史の舞台から静かに退場していきました。何という素晴らしい生きざまでしょうか。
 
62才の男性の文を読みました。「同僚や家族にも言えないような悩みが生じた時に、人生の本質を考えるところに立って、悩みと正面から向きあえるように支えてくれる人と相談していたら、どんなに良かったことだろうと悔やまれる」
 
若いヨセフも婚約者のマリアから「神の霊によって身重になった」と告げられて 動転してしまいました。誰にも相談できません。独り苦しみ悩みました。ひそかに婚約解消を決心したものの、なお悩んで眠れぬ夜を過ごしていると、夢に天使が現れて語りかけてくれたのです。天使はヨセフに、自分が何者かを自覚させ、悩みと正面から向き合って、どう生きるべきかを考えさせようと、導いてくれました。
 
62才の男性は良い助言者にめぐり合えなかったと嘆きました。病院の院長辻口啓造も、心の中の底なしの洞窟から、次から次へと湧き出てくる恐ろしい思いに翻弄され続けています。ところが若いヨセフは天使という素晴らしい助言者に出会って人生を 一変させました。では62才の男性も、病院の院長も、どうしてヨセフのように、天使という素晴らしい助言者と出会わなかったのでしょうか。
 
パウロは「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ114)と言っています。天使とは、神さまからの救いを受け継ぎたいと強く願う者に、神さまが送ってくださる奉仕する霊なのですね。
 
ヨセフは、自分もマリアも共々に救われたいと強く願ったのです。ですから神さまは天使をヨセフのもとにお遣わしになりました。ヨセフは遣わされた天使に聞こうとしました。そして奉仕する霊を頂きました。そして妻マリアを支え助けて、マリアに  与えられた使命を一緒に果たして行く人生、奉仕する人生を選び取ったのです。        
 
[結] ヨセフのように
 世界を闇にしているのは、私たちが自分のことばかり考えて、周りの者にいたわりの手をさしのべないからです。ヨセフも自分にこだわっている間は、心が暗闇でした。しかし神さまから送られた奉仕する霊・天使によって、自分よりも弱い立場にある マリアを思いやり、彼女に仕えていく道を示されました。そして救い主イエス・キリストを守り育てて、世に送り出していく意義ある人生を送ることが出来たのです。
 
 世界の一番低い所に救い主イエス・キリストを誕生させて下さった愛の神さまは、ヨセフだけに限らず、悩み苦しみ悲しむ者全てに天使を送って下さっておられます。自分を守ろうとする私たちに、もっと弱い立場にある人を思いやり、仕えていこうとする心を与えて、私たちを闇から救い出してくださるのです。
 
ヨセフは平凡な村の若者でした。ですから私たち誰でもがヨセフになれるのです。クリスマスを迎えるに当たって、私たちは耳をすませて、天使を通して語る愛の神さまの語りかけを聞き取ろうではありませんか。そして人に仕えて生きる喜びを輝かそうではありませんか。       
                                 完

素晴らしい決断(前半) マタイ1:18-25  12月16日

2013-07-10
20121216日川越教会
素晴らしい決断(前半)
               加藤 享
[聖書] マタイによる福音書1章18~25節
 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
  このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
 
[序]
 待降節のローソクが3本灯りました。昨日は市民会館でヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」を久し振りに聞きました。あと1本灯るとクリスマスです。クリスマス礼拝のご案内を、周りの方々にお配りください。
 
 新約聖書の第一頁は、アブラハムから始まりヨセフに至る系図が長々と記され、それからイエス・キリストの誕生の次第となります。マリアはヨセフと婚約中に赤ん坊をみごもりました。ヨセフには身に覚えがありません。ヨセフはどんなに大きなショックを受けたことでしょうか。マリアは「聖霊によって神さまから授かった」と申します。マリアの人柄からすれば、信じなければならないことでしょうが、でもそんなことが現実に起こり得るのでしょうか。ユダヤ教社会では不倫は死刑です。
 
ヨセフは眠れない日々を送りました。悩んだ末マリアを少しでも守るために、何とか明るみにしないで婚約解消にしようと決心しました。すると主の天使が夢に現れて告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 
[1] 疑惑に翻弄される心
三浦綾子の出世作「氷点」は、私が目白ヶ丘教会から巣立って、札幌教会に赴任する直前から、朝日新聞朝刊に連載され始めました、私にとっては想い出深い小説です。人間の原罪を真正面から取り扱った、日本では珍しいキリスト教文学作品です。皆さんもよくご存知と思いますが、ヨセフの心境を知るために、少し引用いたします。
 
舞台は北海道の旭川です。主人公の辻口啓造は、病院の院長として信用も高く、クリスチャンではありませんが「汝の敵を愛せよ」という言葉を座右の銘としている人格者でした。ところが娘のルリ子が近くの川原で殺される事件が起り、自分の留守に妻の夏枝が勤務医の村井と密会している間に起ったことではないかと、二人の関係を強く疑うようになりました。そして夏枝がルリ子のような女の子をもう一度育てたいと望むので、犯人の子を引き取って夏枝に育てさせました。「汝の敵を愛せよ」を実行するのだと自分に言い聞かせながらも、本音は妻の不倫に対する復讐でした。
 
ふとしたはずみで真相を知った夏枝は、それまで可愛がっていた陽子をいじめ始めます。それでも陽子は世の光の如く明るく生きようとしました。しかし高校2年の時に、夏枝から真相を暴露され、翌日自殺を図ります。健気に生きようとしてきた自分の存在自体が、夏枝を傷つけ苦しめてきたことに気付いたからです。「どんな時でも明るく生きようとした私は、お母さんからご覧になると腹が立つほどふてぶてしい人間だったことでしょう。私の心は凍ってしまいました。陽子の氷点は『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。私はもう人の前に顔を上げることができません」
 
啓造はクリスマスに、聖書の今日の箇所を開いて読みました。結婚していないのに婚約者が妊娠して、人目につくほどになった。それを知った時のヨセフの懊悩が、啓造には十分察することができました。「ひそかに縁を切ろうとした」という短い一句に、その思いがこめられています。ところが夢に現れた天使が、その妊娠は神の意志によると告げました。破約しようと決心していたヨセフは、天使の命じた通りに、マリアを妻に迎えました。この一事に啓造は強く心打たれて、深い吐息をつきます。
 
これまでの何十億人のキリスト信者の中で、マリアの処女懐胎をヨセフほど信じることが難しい立場にあった者はいないでしょう。最も信じ難い立場にあって、天使の言葉に素直に従ったヨセフに、啓造は驚嘆しました。ヨセフが神を信じ、マリアを信じたように、啓造も夏枝の人格を信じたかったと、涙を流しました。啓造は、ヨセフのようには出来ない自分に泣いたのでした。
 
そうです。ヨセフほどマリアの処女懐胎を信じ難い立場にあった者は、この世にありませんでした。ヨセフの疑惑と苦悩に比べれば、啓造のそれなど何と軽いものでありましょう。事実夏枝に起こった出来事というのは、身ごもるという体の関係までには至らなかった程度のものだったのです。それでも啓造の疑惑と恐れは、彼を駆り立てて、復讐のために犯人の娘を妻に育てさせたのでした。人間の心には恐ろしい思いが次から次へと湧き出てくる底なしの洞窟があるのです。最愛であるべき妻に向かって何ということをしてきたのか、自分でも戦慄しながら、その怒りに翻弄されている自分に、啓造は泣いたのでした。(後半へ)

なかなか理解できない救い主(後半)  2012年12月2日

2013-07-10
2012122日川越教会
       なかなか理解できない救い主(後半)
                   加藤 享
(前半より)
 
[2] 私たちの罪の深さ
 私たちは病気が治り丈夫な体で暮らせること、お金が十分にあって豊かに暮らせること、勉強がよく出来て良い学校を卒業し、良い地位につくことが幸福な人生 だと考えます。でも実際には、頑丈な体にまかせて弱い者をいじめたり、強盗殺人をする人がいます。お金持ちの家ほど家族がバラバラになったり、自殺する人が出ると言われています。良い地位について罪を犯し、滅びる人が絶えません。
 
 それは私たちの人格が病んでいるからです。私たちの心が本来在るべき状態にないからです。それを聖書は「」と言います。聖書のいう罪とは、犯罪ではなく、犯罪を生み出す心の病んでいる状態をいうのです。その罪が私たちの身を誤らせ、滅びの道へと引きずり込むのです。ですから私たちは先ず「罪から救われること」が何よりも先に必要です。そこで神さまは国や民族の栄光よりも、一人ひとりを罪から救う救い主をこの世にお送り下さったのでした。
 
 私たちがまだシンガポールで暮らしていた8年前に「キリストの受難」という映画が上映されました。皆さんは日本でご覧になりましたか? ゲッセマネの祈り・逮捕・拷問から十字架の死までを詳しく描写したただそれだけの映画でした。主イエスが残酷に痛めつけられていきます。兵士たちによってこれでもかこれでもかと、太い皮の鞭で叩きのめされ、血まみれになって茨の冠をはめられ、重い十字架を背負わされ、倒れては引き起こされ、倒れては引き起こされて、ゴルゴタの丘にたどり着き、大きな太い釘を手と足に打ち込まれます。そして最後には死を確認するために、わき腹を槍で突き刺されます。 
 
 喜美子は正視出来ず、うつむいて顔を覆っていました。そして帰宅すると寝込んでしまいました。あの兵士たちも妻や子どもたちを養う普通の人間でしょう。それがどうして罪も汚れもないお方に対して、あれほどまでも凶暴になれるのでしょうか。十字架とは私たち人間の内にひそむ罪を徹底的に暴き出すものなのだと、痛感させられました。
 
先日中村梧郎写真展「枯葉剤とベトナム」を見ました。ベトナム戦争10年間でアメリカ軍が使用した爆弾は785万トン(太平洋戦争で日本に投下された爆弾は164000トン)ベトナム人330万人が死亡しました。更にべトコンの潜む森林を枯野にするために、7200万リットルのダイオキシン枯葉剤を航空機から散布し続けて、広島・長崎の原爆被害に劣らない後遺症が、三世代にわたって発生している現実を、中村さんのカメラが知らせてくれました。
 
原子爆弾といい、枯葉剤といい、非人道的な兵器を使用して勝とうとしたキリスト教国アメリカ。アメリカ人の信仰とは一体如何なるものなのでしょうか。勝つためには手段を選ばない。これでもか、これでもかと残虐性がエスカレートしていくのです。私は中村さんの写真展を見ながら、主イエスを十字架につけて打ちのめした兵士たちの残虐性と同じ場面をもう一度見る思いがしました。
 
アメリカだけではありません。日本軍もアジア諸国2500万人以上の命を奪いました。ユダヤ人600万人を殺したナチスドイツ。ルワンダの70万人を超える虐殺、今なお世界各地で、殺し合いが続いています。私たち人間は皆、このような残虐な罪深さを、人格の底に隠し持っているのです。
 
この罪深さから、私たちはどうしても救われなければなりません。だからこそ神さまは、イエス・キリストとなってこの世に来てくださり、ご自分を十字架にかけて、私たちの凶悪な罪を一切引き受けて、死んでくださり、その血によって私たちの罪を清め、赦し、新しい神の命を与える救いを与えてくださったのでした。
 
[結] 十字架に込められた神の愛
 私たちはこれから主の晩餐式を守ります。第一回の晩餐式には、ユダもペトロも共に参加しています。ところがユダはその後で主イエス逮捕の手引きをしてしまいました。ペトロも「どこまでも従います」と誓っていながら、その夜のうちに「イエスなど知らない」と三度も嘘をついて我が身を守りました。
 
 ユダは自殺し、ペトロは立ち直りました。ペトロとユダとの違い――それは自分の罪を悔いて、泣きながら主イエスのもとに戻って来れた人間と、それが出来なかった人間という、ただそれだけの違いでした。ユダは自分で自分の罪を始末して、主の晩餐の食卓には、もう戻って来ませんでした。十字架には、どんな罪でも無条件で赦してくださる神の愛が込められています
 
 主イエスは、ご自分を十字架にはりつけて嘲笑っている人々の罪の赦しを祈りつつ、悔い改めている犯罪人を引き連れて、死んでくださいました。このお方が招いて下さっている晩餐の食卓です。自分の罪深さを恥じて、主の晩餐の食卓に戻ってこない人は、たとえどれほど誠実であっても、ユダの道をたどっている人ではないでしょうか。
 
 復活された主イエスは、三度嘘をついたペトロの前にたち、「わたしを愛するか」と語りかけ、「わたしの羊の世話をしなさい」と三度も繰り返して新しい人生の任務を与えて下さいました。こうしてペトロは立ち直り、弟子としての生涯を全うすることができました。
 
 これが生ける神の子きりストの福音です。平和を求めてこの福音を、先ず身の回りの人に、そして世界中の人々に伝えて参りましょう。祈り、献金し、自分自身を献げて、主のご命令に応えて参りましょう。       
                                 完

なかなか理解できない救い主 (前半) マタイ16:13-23 12/2

2013-07-10
2012122日川越教会
なかなか理解できない救い主 (前半)
                                              加藤 享
[聖書]マタイによる福音書16章13~23節
イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
  このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 
[序] 世界バプテスト祈祷週間の起源
先週の日曜から今日にかけての8日間、世界中のバプテスト教会では世界伝道を覚えて祈り、献金を捧げる世界バプテスト祈祷週間を守っています。これは1873年から40年間中国の山東省で働いたロティームーン宣教師の熱い訴えを受けとめた アメリカ南部バプテストの諸教会の婦人たちの間から、世界伝道のために特別な クリスマス献金を捧げようという運動が起こり、それが全世界に広まったものです。
 
ロティームーンは優れた学校教師でしたが宣教師を志願し、187333才の時に3ヶ月の船旅をして上海に上陸、山東省40年間働きました。「もっと宣教師を送って欲しい。30人欲しいがせめて2人を!」と何度も本国の南部バプテスト連盟に訴えましたが、アメリカ国内の経済不況のためもあり、国内の伝道で手一杯と反応がありません。そこで彼女は諸教会の婦人たちに、世界伝道を支える婦人会を作って、クリスマスの一ヶ月前に献金を募って欲しいと直接訴えました。それに応える婦人たちが各地で立ち上がり、連盟にも婦人部が出来て、全国的に祈祷週間と取り組むようになったのでした。女性の力と働きは偉大ですね。
 
1912年、中国は深刻な飢饉に見舞われました。毎日大勢が餓死していきます。彼女は自分の預金を全部引き出して救済に回しました。自分の食べる分も細くして飢えてる人に回している彼女をみかねて、周囲の人々が衰弱した体を無理に船に乗せて帰国させました。そして船が神戸港に停泊中に、1912年のクリスマスイヴの鐘を聞きながら、静かに72才の生涯を閉じたのでした。
 
後に残された残高ゼロの銀行通帳には、「私のような淋しさを経験する宣教師が決してないように」と書かれてあったそうです。世界伝道のための献金をアメリカでは、ロティームーン・クリスマス献金と呼んでいます。
 
今年はロティームーンが神戸港で亡くなって100年の記念の年です。彼女が40年間福音を伝えて中国の人々に仕えた山東省では、浦和教会から送り出された宮井武憲・乃り子夫妻が、自分のアパートで去年の11月6日の日曜日から、青島の在住  日本人の日曜礼拝を開始しました。4家族16人の礼拝でした。ロティームーン宣教師の世界伝道への訴えが、私たちの身近からも、このような形で応答されていることは、本当に嬉しいことですね。
 
[1] 弟子たちが期待したメシア
 今日の聖書の箇所は、シモン・ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した場面です。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ兄弟たちは、ガリラヤ湖の漁師でした。主イエスから「わたしについて来なさい」と声をかけられ、全てを捨てて弟子になりました。このお方について行けば、もっと良い人生を送れると期待したからでしょう。他の8人の弟子たちも同じだったに違いありません。
 
 彼らは主イエスと毎日一緒に暮らして、人々に接しておられるお姿をつぶさに見て学んでいるうちに、このお方は預言者以上のお方であると分かって来ました。そして「あなたがた方はわたしを何者だと言うのか」との主の質問に、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるまでになったのでした。すると主イエスは弟子たちに対して、「メシヤ教育」をお始めになりました。
 
 メシアとはヘブル語で「油を注がれた者」を言います。そのギリシャ語訳がキリストです。王や祭司は油を注がれることで神によって任職された王・祭司であることを表わしました。ところが紀元前8世紀、イザヤを始めとする預言者たちが、神によって立てられる救世主を予言するようになり、そのようなメシヤの到来にたいする期待が、人々の間に広がりました。
 
 人々はメシアを、自分たちの国が歴史上一番栄えたダビデ王のようなお方と考えたようです。ペトロたちも同じようなメシヤを期待していたのでしょう。そして主イエスをそのメシヤと結びつけて考えるようになりました。ところが主イエスの口から出てきたのは、ご自分が「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」というお言葉だったのです。
 
 ペトロはあわてて主イエスをわきへお連れして、いさめ始めました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」弟子たちの驚きと戸惑いがよく表わされています。メシヤはダビデ王国を再び興してくださる方でなければなりません。指導者たちから苦しめられ、殺されてしまうなど、とんでもないことです。しかし主イエスはおっしゃいました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 
 サタンとは悪魔のことです。ペトロは主イエスから悪魔呼ばわりされたのです。ペトロも他の弟子たちも、二度続けて腰を抜かさんばかりに驚き、恐れたのではないでしょうか。「どうして?」「神のことを思わず、人間のことを思っているから」です。神さまのお考えは「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活するメシア」。「必ず」というお言葉に、神さまのゆるがない意志と計画が表明されています。
 
 これは言葉を変えて言えば、「十字架の死を通して救いをもたらすメシア」ということです。しかしそのようなメシアを弟子たちも人々も期待していませんでした。神さまはどうしてこのような栄光とはかけ離れた惨めなメシアを、この世にお送りになったのでしょうか。
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おさな子を祝福する(後半) マルコ10:13-16 11月11日

2013-07-10
 
20121111日川越教会
おさな子を祝福する(後半)
            加藤 享

 
 
(前半より)
「ここは子供の来る所ではない」「邪魔だ、あっちに行け!」――大人の心に余裕がなくなると、子供は邪魔者扱いされます。大事に可愛がられたり、粗末に追い払われたりと、大人の都合で子供が翻弄される――私たちの日常生活でよく見かける光景です。しかしイエスさまは、子供たちが粗末に扱われると、非常に憤慨して弟子たちを叱りました。
 
 その理由は「神の国はこのような者たちのもの」だからです。子供は罪が無くて清いからというのではありません。どんな幼い子供でも、大人の罪深さをちゃんと備えています。我ままな点では大人以上です。だから神の国は子供のものだとは言われていません。子供のように受け入れる者だけが入れる所だと,受け入れるという点が強調されています。
 
神の国は、入学試験のように良い成績をあげて合格するものではなくて、さあ入れてあげるよと差し出される恵みを、有難く頂戴することによって、入れる所だとイエスさまはおっしゃったのです。そうです。良い成績を上げなければというのでしたら、頭の悪い者はダメです。修行を積んでとなれば、意志の弱い者はダメです。沢山の寄付をすればというのでしたら、貧しい者はダメです。
 
 ところが差し伸べられた手に、無心に身を委ねることの出来る幼子のように、神さまがイエス・キリストを通して与えて下さろうとしている救いの恵みを、ただ有難く頂戴することならば、誰にでもできます。何も出来ない幼子でも救われるとすれば、どんな人でも救われます。大切なのは修行ではなく、受容なのだとおっしゃったのでした。 
 
[3] アーメン坊やの救い
以前のこと、「アーメン坊や、救われる」という見出しの新聞記事を読みました。  父親と山菜とりに山に入った4才の男の子がはぐれてしまいました。警察・消防団総出で捜査し、翌朝木の根の陰に眠っているところを、無事救い出されました。「淋しくなかったの」「怖くなかったの」という質問に「ううん、アーメン、アーメンとお祈りしていたから」と答えたそうです。「神さまが守ってくださっている、お父さんが必ず助けに来てくれる」と信じて、じっと待っていることが出来たからでした。
 
 このアーメン坊やは、遭難した時にとるべき最善の行動をとりました。むやみに歩き回ったら体力を消耗します。闇の中で崖から転落したかも知れません。迷子になった地点からそれほど動き回りませんでしたから、見つけ易かったのです。不安や恐怖に駆り立てられて絶望することなく、平安な心で眠って待つことが出来ました。実に見事ですね。
 
 でもこの子はそれが最善だからと自覚して、行動したのではありません。普段から身につけていたアーメンとお祈りする信仰と、神さまとお父さんへの信頼を持ち続けたので、結果的に大人でもなかなかとれない最善の行動をとれたのでした。その意味でこの子の両親は、命を守る一番基本的な教育を、我が子に授けていたと言えましょう。「神さま、お守りください、アーメン」とどんな時でも祈って、平安な心を保つ信仰こそ、私たち大人にとっても、何にもまして大切ではないでしょうか。
 
 家族一緒に教会に通い、礼拝し、毎日神さまの恵みに感謝して「アーメン」と祈る信仰を、素直に身につけたこの坊やこそ「神の国はこのような者たちのものである」とイエスさまがおっしゃった子供だと思います。そして私たち大人は「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という言葉を心に刻みつけ、子供たちから常に学ばなければならないのではないでしょうか。
 
[結] 主の御手に我が子を差し出して
 イエスさまは、幼子ばかりでなく、病気で苦しんでいる人、人々から卑しめられている人を招き、無条件で祝福されました。「父よ、貴方の御心をなさってください」と神さまへの全幅の信頼をお示しになりました。妬む者たちによって捕えられ、  十字架にはりつけにされながら、彼らの罪を赦してくださいと祈りつつ、死んでくださいました。こうしてどんな人の罪をも赦し、救い、祝福してくださる神さまの愛を現してくださいました。
 
 このお方につながることによって、私たちは神さまとの絆を保つことができます。聖書を読んでこのお方の言葉を知り、信じて祈ることによって、命を豊にする力を頂きましょう。家族みんなで礼拝に集まり、あのアーメン坊やのような信仰を親子ともどもに、身につけていきましょう。
 
 いとし子を与えられているお父さん、お母さん。手を差し伸べてくださっているイエスさまに、我が子を差し出して、祝福を豊に頂き続けながら、ご自分たちもその祝福のもとに、養育の務めを果たしていかれますように。ご自分たちのふところが、我が子の信仰の揺りかごです。
 
皆さんお一人ひとりと、大切な家族お一人ひとりの上に、神さまの恵みが豊に在りますように。     完    
 
 

おさな子を祝福する (前半)  マルコ10:13-16   2012年11月11日

2013-07-10
20121111日川越教会
               おさな子を祝福する (前半)
                                 加藤 享
[聖書]マルコによる福音書10章13~16節
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
 
[序]七五三を祝いながら
 七五三の季節になりました。3才5才になった男の子、3才、7才になった女の子が着飾って、氏神さまにお参りする行事です。医療が十分でなかった昔は、幼児が小さいうちに病気で次々と死にました。そこで「ああ3才になった、有難い!」  「もう5才、7才に達した。これで無事に成人してくれるだろう」と喜び祝い、引き続き健やかに成長するように、祈願したのです。
 
 ところがこの頃は、幼いわが子を虐待して殺してしまう親が絶えません。どうしたことでしょうか。一方成人した子供に親が殺されてしまう事件もよく起こります。幼子ばかりか、親もうかうかして居られなくなりました。親子の絆が脆くなり、変化してきたのでしょうか。世の中がどんどん悪くなってきているようです。どうしたらよいのでしょう。
 
[1]子は宝というけれど
 日本最古の歌集「万葉集」に、親心を歌った山上憶良やまのうえのおくら)の有名な歌があります。「(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに、まされる宝、子にしかめやも」子供は金銀財宝にまさる一番の宝だというのです。ここから「子宝」という言葉が生まれてきたのでしょう。
 
 私は以前に札幌で30年余牧師をしていましたが、北海道の遠軽に有名な家庭学校があります。昔は非行少年の更生施設でしたが、現在は欠損家庭の子供たちの施設になりました。設立者の留岡幸助先生は少年時代に岡山県の田舎でクリスチャンになりました。明治の初期のことです。困り果てた父親が町の警察署長にクリスチャンをやめるように説得してもらいました。でも彼は頑として節を曲げません。署長は父親にこう言ったそうです。「金助、こんな子はダメじゃ。連れて帰れ。しかし子は親のものじゃから、煮て食おうが焼いて食おうが、親の勝手じゃ!」
 
 「煮て食おうが焼いて食おうが親の勝手」とは極端な言い方ですが、我が子は親の思うように扱えるものだという意味でしょう。このような思いと、「どんなに高価な金銀宝石よりも、わが子は大切な宝だ」と歌う万葉集の心とが、二つながら私たち日本人の心にはあるのですね。
 
 私は札幌の次に、シンガポール10年暮らし、日本語教会の牧師をしましたが、そこは金細工の装飾品店が実に多い街でした。人口の76%を占める中国人が、お金が出来るとすぐに金製品を買うからだそうです。銀行は何時つぶれるかわからない。戦争が起ったらすぐ逃げ出さなければならない。身近に持つ金の装飾品の方が、いざという時に世界の何処でもすぐ換金できるからだそうです。砂漠の民も財産は貴金属・宝石の装飾品にして身に着けて生活していると聞きました。
 
 宝というものは、我が身が危なくなった時に、それを売って我が身を守るのに役立つので大切なのですね。としますと我が子がどんなに金銀財宝よりも大事な宝だとしても、宝であるからには、危なくなればそれを売って、我が身を守るものでしかないということになります。そこで我が子を自分の思い通りに取り扱えるという 警察署長の考えと、結びつくのでしょう。
 
 しかしこれでは、親の立場が中心で、子供を本当に大事にしていることにはなりません。親心とは、その程度のものなのでしょうか。また子供は何故大事なのでしょうか。
 
[2] 神の国はこのような者たちのもの
 ここで聖書の言葉に戻ります。ある時主イエスさまのもとに、親たちが幼子を連れて集まってきました。手を置いて祝福の祈りをしていただこうとしたのです。ところが弟子たちは「ダメだ、ダメだ。先生は今お忙しいから」と叱って、追い返そうとしました。その有様を見て、イエスさまは非常に憤慨なさり、おっしゃいました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」そして、子供たちを一人ひとり抱き上げ、手を置いて祝福されたのでした。
 
にこにこ機嫌よくしている赤ん坊は、思わず手を差し伸べたくなるように可愛いいですね。お母さんを見上げて仲良く会話している親子の姿は、周りを微笑ませ、和やかにしてくれます。しかし泣き叫んでいつまでも親をてこずらしている子供には、周囲の者まで次第にいらいらが募って、いい加減にしてくれとうんざりさせられます。
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国が滅びるとは[後半] 2012年9月30日

2013-05-11
2012年9月30日川越教会

                    国が滅びるとは[後半]



                                     加藤 享

(前半より)

[2]神の目によって定まる歴史
 ではどうしてイスラエルの民は、このような悲劇を味合わねばならなかったのでしょうか。直接的原因は国王の無能さです。24章1節以下をご覧ください。ヨヤキム王は三年間バビロン王に服従しましたが、その後反逆しています。当時大国エジプトと新興国バビロンにはさまれた小国として、どちらの傘の下に身を寄せるかに国の命運がかかっていました。確かに父ヨシヤ王はエジプトがバビロンと対決しようとして、南から攻め上って来た時、これを迎え打って戦死しています。

 兄のヨアハズが王になりましたが、三ヶ月後にエジプト王によってエジプトに連れて行かれ、ヨヤキムが兄に代わって王に立てられました。ここまではエジプトが優勢です。しかしその後バビロン王が勢力を強大にしてエルサレムに攻めて来たので、エジプト王に貢いでいた税金をバビロン王に払うようになりました。ここで世界の覇権はエジプトからバビロンに移っています。その世界情勢を見究めることが出来ず、ヨヤキムはエジプトを頼みとして バビロンに反逆したのでした。

 バビロンはすぐさまエルサレムを包囲しました。しかしエジプトは最早助けに来てくれません。そして包囲されている最中に彼は死に、18才の息子ヨヤキンが王になり、城門を開いて降伏したのでした。そして第一次バビロン捕囚となりました。ところが次に王にされたゼデキヤも、バビロンに反旗を翻して、決定的に滅ぼされてしまったのです。どうして歴史に学んで世界情勢を的確に判断出来なかったのでしょうか。

 良い家臣に恵まれなかったのです。日本は世界の状況を知っている海軍が、世界に無知な陸軍の暴論に押されて、無謀な戦争突入に賛成し、天皇はその決定に従って開戦の詔勅を出してしまいました。しかしユダ王国の王たちは、エレミヤのような真の預言者が居るにもかかわらず、彼を退け、偽預言者たちに惑わされました。偽預言者の典型としてハナンヤの記事が、エレミヤ28章に記されています。

 しかし何よりも、王自身にイスラエルの歴史を通して彼らを導いて来られた主なる神を畏れ敬い、その御言葉に聞き従って、神の民の王としての責任を果たして行こうという信仰が薄かったことがあげられます。先週学んだヒゼキヤ王は偉大な預言者イザヤに聞き従いましたが、その息子マナセは主の目に悪とされる数々を行って主の怒りを招きました。「それゆえイスラエルの神、主はこう言われる。見よ、わたしはエルサレムとユダに災いをもたらす」(21:12)

 マナセの孫ヨシヤは、「彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くして主に立ち返った王は、彼の前にも後にも居ない」と言われるほど、宗教改革を進めましたが、「しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとはなさらなかった」(23:26)と聖書は語っています。

 国を直接滅亡させたヨヤキムもゼデキヤも「主の目に悪とされることをことごとく行った」(23:37、24:19)と記されています。主の目によって国の滅亡が決まる――  人間の思惑や行動が歴史を織り上げていくように見えますが、歴史は神の御心が働く場なのですね。神さまの御心が歴史に表れていくのです。

 そうならば私たちは、神さまの御心を尋ねながら、歴史に参与していかねばなりません。神の目に良いとされることを行おうとする時、私たちは真剣にみ言葉を読み、祈らなければならなくなります。信仰の友の助言に謙虚に耳を傾けます。自分の欲や世間の慣わしになびこうとする心と激しく戦います。礼拝を大切にして、心身を整えます。こうして歴史を綴る信仰の歩みが一歩一歩と進められていくのです。神さまからの祝福をいただけるのです。国民の幸せを担う一国の王たる者こそ、そうでなければなりませんでした。

[3]裁きとともに赦しと祝福を備える歴史の主
 
 南王国が滅び、国王以下がバビロンで捕囚生活を始めました。エルサレムに残ったエレミヤは手紙を書き送っています。エレミヤ書29章です。

「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。 わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」(5~7節)

「 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(10~11節)

 エレミヤは国家滅亡の悲劇を目の当たりにしながら、イスラエルを今日まで導いて来てくださった主が,ご自分の民をこのまま滅ぼし尽くしてしまわれるはずがないと確信しました。すると神さまは70年先の歴史を彼に見せて下さったのでした。それは捕囚の民の喜びの帰還です。先の見えない異国での捕囚生活、ともすれば絶望に押しつぶされそうになります。しかし主は希望を与える将来を示してくださったのです。「それは平和の計画である」何と嬉しいことでしょうか。

 王国の滅亡は神の民の罪に対する、神の厳しい裁きでした。しかし神さまは将来と希望を与える平和の計画をすでに用意しておられるのです。そして「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」「心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会う」「わたしは捕囚の民を帰らせる」と約束して下さったのでした。

 これこそが祝福なのですね。信仰の祝福なのですね。信仰者には絶望はありません。どんな時にも、将来と希望が与えられるのです。歴史を導く神さまは、憐れみに富み、厳しい裁きと共に、赦しを祝福を用意しておられる支配者なのです。ですから私たちは、主の御心に背いた罪を悔い改めて、主の御許に戻らなければなりません。

[結] 赦しと希望の将来
 
 国が滅びるとは、神の激しい裁きです。神の激しい怒りの炎によります。私たちは心の底から、罪を悔い改めなければなりません。神さまは、赦しと希望の将来を既に御心の内に、備えて下さっているのです。 

 反日デモに心を痛めて祈っている時に、「主よ、御国を来たらせたまえ」という祈りの大きな響きが聞こえてきました。そうです。神さまは既に、一億を超える同信の友を中国に備えて下さっているのです。この兄弟姉妹が、中国の各地で今日も礼拝を守り、「主よ 御国をきたらせたまえ」と主の祈りを唱えて下さっているのです。何と心強いことでしょうか。

 「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」との祈りが、中国各地で祈られているのです。赦しは必ず拡がっていくのです。私たちもこの日本国内で、主の祈りを唱える同信の友もっともっと増やしていきましょう。  完

国が滅びるとは[前半] 2012年9月30日

2013-05-11
2012年9月30日川越教会

                  国が滅びるとは[前半]

                                    加藤 享

[聖書]列王記下23章24~27節
 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。 彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。 しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。 主は言われた。「わたしはイスラエルを退けたようにユダもわたしの前から退け、わたしが選んだこの都エルサレムも、わたしの名を置くと言ったこの神殿もわたしは忌み嫌う。」

 24章10~14節
 そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。 部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。 ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。 主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ。 彼はエルサレムのすべての人々、すなわちすべての高官とすべての勇士一万人、それにすべての職人と鍛冶を捕囚として連れ去り、残されたのはただ国の民の中の貧しい者だけであった。


[序]中国に於ける反日デモ
 
中国各地で反日デモが続発し、日本のスーパーや日本企業の工場破壊が発生しています。原因は日本政府が尖閣諸島の地権者から権利を購入して、国有化したからでした。そもそもの発端は石原東京都知事が地権者と交渉して東京都で購入し、放置されてきた漁民の避難所施設や灯台等を整備しようとしたからです。政府は島に手を加えて中国を無用に刺激して紛争を起こさぬようにした積りでしたが、それでもこの事態になってしまいました。

 自国の主権が侵されることに激しく拒否反応を示す中国。近代になって欧米日諸国に主権を侵され、最後には日本軍に全土を侵略された屈辱の歴史が、中国国民にとってどれほど深い傷跡を残したかを、あらためて見せ付けられています。

 私たち夫婦がシンガポールから帰国した2005年にも、4月に中国各地の大都市で激しい反日デモが発生し、一部が暴徒化しました。あの時は小泉首相の靖国神社参拝問題と韓国竹島問題、そして日本が国連安保理事会の常任理事国になりそうになり、国際政治でも大国化することへの反感から起ったものでした。中国の若者たちは「小日本」(xiao Riben)を口々に叫びました。英語のJapと同じ軽蔑語です。今回のデモではこの言葉が聞こえませんね。日本をもう小日本とは呼べなくなったのでしょうか。

 先日の朝日新聞投書欄で北京に6年駐在した方の文を読みました。「各地を訪問し多くの場所で『抗日記念館』を目にしました。雲南省の小さな村の記念館では日本軍の残虐行為について、若い係員が涙ながらに説明していました」デモに参加した若者たちは愛国教育を受けて育ちました。丁度私たちの世代が戦時中に徹底的に皇民愛国教育を受け、お国のために戦死して靖国神社に祀られることのみを目指した姿を想い起こします。一体何時になったら、愛国心と日中友好が両立して、このような反日デモの起らない時代が来るのでしょうか。暗い思いに襲われます。

[1]戦争の悲惨さを感じる心
 
 さて私たちは、旧約聖書のイスラエル王国時代の歴史を学んできました。紀元前1000年にダビデが統一王国を建てましたが、栄華に輝くソロモンの代が終わると南北に分裂し、北王国は前722年に滅亡、南王国も前586年にバビロンにより滅ぼされてしまいました。南王国の滅亡――それが今日の学びです。

 ヨヤキン王は、バビロンの大軍に包囲されている危機の最中に、父ヨヤキム王が死に、18歳で王位を継ぎました。そこで3ヶ月後に城門を開いて全面降伏したのでした。そして神殿、王宮の宝物のすべてと共に、母や妻、家来、有力者の全員、軍人、兵士から職人、鍛冶等の技術者全員を捕囚の民としてバビロンへ連れて行かれました。 第一次捕囚です。都には貧しい者だけが残されました。

 バビロン王は、ヨヤキンに代えておじのマタンヤを王にし、名前をゼデキヤと改めさせました。名前を変えさせられるとは、それまでとは別の人格にされることです。ゼデキヤはバビロン王の意のままになる王となりました。しかし愚かにも8年後に、反旗を翻してバビロンの大軍に包囲され、2年半後に遂に落城。自分の目の前で息子たちを殺され、両眼をつぶされてバビロンに引き立てられて行き、牢獄のなかで死にました。エルサレムの神殿も王宮も焼き払われ、城壁も取り壊されてしまいました。イスラエル王国の完全な滅亡です。

 NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」が昨日で終わりました。東京蒲田の焼け野原で空襲を生き延びた庶民が、バラック住まいから次第に暮らしを立て直して幸せになって行く戦後の復興振りが描かれていました。見ていますと戦争に負けて打ちのめされたという惨めさや厳しさが余り感じられません。確かに67年前の我が国の敗戦は、戦勝国から随分寛大に扱われたと言えましょう。私自身の戦争体験もこのドラマと似ていました。大空襲以前に東京から北海道に疎開して平穏な8月15日を迎え、翌年には東京に戻り、空襲の被害にあわなかった練馬で中学生活を送ったのです。二度と戦争をしてはならないという厳しい自覚に欠けていないかと反省させられます。

 それに比べて、東京や大阪、広島、長崎の大空襲、原爆の被害に直接遭われた方、沖縄の激しい地上戦の戦場に巻き込まれた方、外地で敗戦を迎え、難儀な引き揚げや抑留生活を余儀なくされた方々の苦労はどんなにか深刻なものだったことでしょうか。否、それ以上に日本軍の侵略によって平和な生活を破壊され、家族を殺され、悲惨のどん底を味合わされた、中国はじめアジア諸国の皆さんは、どれほど戦争を呪い、日本を呪ったことでしょう。

 私は今日の聖書箇所を読んで、国を滅ぼされた時に味合わせられる恐怖、苦痛、悲しみ、呪いに、もっともっと共感する感性を持たなければと痛感させられました。
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