メッセージ

聖書のことば 7月

2014-06-13
 静香さんのお父さんが持っている聖書の中には、一枚の葉っぱが入っています。この葉っぱはもみじの葉ですが、枯れたような赤黒い色をしていてねあまりきれいではありません。はじっこの方には、虫に食われたような穴もあいています。もしかしたら誰も見向きもしないような葉っぱなのかもしれません。でも、お父さんはこの葉っぱが大好きなのです。なぜかというと娘の静香さんが2歳の時に散歩から帰ってきて、ニコニコしながら初めてくれたプレゼントだからです。だから穴が空いていても、大切にしています。これは、何と言ってもお父さんの大事な宝物なのです。お父さんはこの葉っぱを、イザヤ書49章16節の所にはさんでいます。ここには、「私はあなたを深く愛しています。ですからあなたの名前を手のひらに書きました」という言葉が書かれています。神様は皆さんが本当に好きなので一番見やすいように手のひらにひとりひとりの名前を書かれたのです。神様は、私たちが祈ったり、毎日笑顔で生活したりするとき、どう思われるでしょうか。それらは、みんな神様へのプレゼントなのです。神様はそれを、大事な宝物として喜んで受け取ってくださるのです。

聖書のことば 6月8日

2014-05-12
6月8日はペンテコステ礼拝です。  私たちの周りには、意外と見えないものがたくさんありますよね。見えないけどあるんだよ。と言うものがたくさんあります。そして眼に見えないモノの方が大切なものが多いかもしれません。心、魂、愛、信じること。空気とか風とか。そして神様。心や魂、そして空気や風は、肌で、あるいは耳で感じることが出来るから、「見えないけどあるんだよ」と言うことができます。でも神様はどうですか? 今日、私たちがお祝いしているペンテコステ、聖霊が降ったという出来事はどうですか? これも見えないけど確かにあります。  ある神社で、赤ちゃんの成長や幸福を祈願した印に、額に御朱印を押すお祭りがあるそうです。でも、残念ながらハンコは顔を洗ったら消えます…聖霊はどうでしょう? ハンコのように見えないかもしれません。でもそれこそ、見えないけどあります。もちろん顔を洗っても大丈夫。ずっと消えません。 「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:4)  聖霊の祝福にも、しるしがあるのです。それは、語り出す「舌」。イエスさまを三度も知らないと言って裏切ってしまったペトロは、悲しくて泣いてばかりいました。でも、聖霊を受けたペトロは、もう泣いていません。立ち上がって、語り出すのです。「ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。」 (使徒言行録4:22)  神はこのイエス様を復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。 (使徒言行録4:32)  聖霊を受けた弟子たちは、語り出しました。それが聖霊の祝福のしるしです。 「ふしぎな風がびゅうっとふけば なんだか勇気が湧いてくる」(こども賛美歌95)  聖霊は「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に」 (使徒言行録4:3) とどまりました。きっと誰かに、というのではなく、私にもあなたにも、一人一人の上に、聖霊の祝福が降り注ぎました。  そして「力を受けた弟子たちは どんな悩みも苦しみも 少しも恐れず伝え行く 神の言葉の証し人。主のからだの教会が こうして世界に広がった」(こども賛美歌93)  私たちがキリストの弟子として、元気いっぱい、喜びに溢れてイエス様の十字架と復活を宣べ伝えて生きている、それこそが、聖霊の祝福を受けたしるしなのですね。

聖書のことば 5月11日

2014-04-21
 今日は「母の日」です。  イエスさまにもお母さんがいました。それがマリアさんです。イエスさまの頃、「マリア」という名前の女の人はたくさんいました。マリアさんと名前の人はたくさんいましたから、あまり目立ちません。  名前も目立たないのですが、マリアさんもあまり目立つ人ではなかったようです。イエスさまの誕生の時にはよく聖書に出てきましたが、それからは時々出てくるだけなんです。ですから、どこにでもいるようなお母さんだったのかもしれませんね。  イエスさまが十字架に付けられた時、お母さんのマリアさんは十字架のすぐそばにいました。悲しくて泣きながらイエスさまを見上げていたことでしょう。イエスさまは、十字架の上からじっとお母さんを見つめました。  お母さんのそばにひとりのお弟子さんがいました。イエスさまは、このお弟子さんをとても大切に思っていました。お弟子さんもイエスさまが大好きで、いつもイエスさまのそばにいました。イエスさまがなさったことをよく見て、おっしゃったことをよく聞いていました。  そんなお弟子さんたちですから、イエスさまが、十字架に付けられてしまってとても悲しかったのです。でもイエスさまがおっしゃったことを思い出していました。それは、イエスさまはみんなのために十字架にかかって死んでしまうけれど、三日目に復活してまた会える、そして復活したイエスさまはずっと一緒にいてくださる、ということです。  イエスさまは、イエスさまのお言葉をずっと信じているこのお弟子さんに、お母さんのことをお願いすることにしました。お母さんに「これからはこのお弟子さんがあなたの子供ですよ」と言いました。お弟子さんには「あなたのお母さんですよ」と言いました。  お弟子さんは、イエスさまのお母さんを家に連れて行って一緒に住むことにしました。そして「イエスさまはまたここに来てくださいますよ」とお母さんに教えてあげたことでしょう。イエスさまがお弟子さんのことを大切にしてくださったように、お母さんを大切にしたことでしょう。

聖書のことば 4月20日

2014-03-29
イエス様が十字架の上で死なれねお墓に葬られてから3日がたちました。ちょうど安息日が間に入ったので、誰も何もすることができません。その安息日が終わるとマリアと何人かの女のお弟子たちが、イエス様のお体に良い香りのする油を塗るためにお墓に行きました。その頃のユダヤのお墓は岩に穴をあけた横穴式のお墓です。中にベッドが置いてあり、そこに死人を寝かせます。そして入口には大きな丸い石の蓋を転がしておくというものでした。マリアたちはその大きな石の蓋をどうやって転がそうか、と話しながらお墓につきました。すると驚いたことに、もう石は脇に転がしてあり、お墓の入口が開いていました。そこに光に包まれた二人の人が現れて「イエス様はここにはおられない。復活されたのです。生きておられるときにわたしは十字架に架けられるが、3日目に復活する」と言われたことを思い出しなさい」と言いました。マリアたちは「たしかにイエスさまはそう言われましたそのお言葉通りによみがえられたのですね」と話しながら、大喜びで11人のお弟子たちにこの出来事を伝えに行きました。お弟子たちは「そんなことは信じられない」と言って信じませんでしたが、ペトロは「もしかするとマリアの言ったことは本当化もしれない。確かめてこよう」と、ヨハネを連れてお墓に走って行きました。お墓についてみると、お墓は空で、イエス様のお体を巻いた布だけがそこにありました。これを見てペトロは、「イエス様は確かによみがえられたのだ」と信じました。イエス様はこの朝復活されて、今も私たちと一緒にいてくださいます。だから、私たちはイエス様を通して神様にお祈りが出来るのです。今日はイースター、日本語では復活祭です。イエス様が復活されたことを信じて、イエス様に従いましょう。

聖書のことば 3月23日

2014-03-22
「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐいあなたの罪を思い出さないことにする」 (イザヤ43:25)  お母さんが真っ白に洗ってくれた服を着て、子供は外に遊びに行きます。夢中になって遊んでいるうちに服は汚れ、真黒になってしまいます。でも、家に帰ってくるとお母さんは「お帰り、疲れたね」と言って、真っ白に洗った新しい服に着替えさせてくれます。  翌日も昨日と同じく外に行って遊んでいるうちに服は真黒に汚れてしまいます。でも家に帰ると、お母さんはまた「お帰り」と言って、きれいな洋服に着替えさせてくれます。  子供は汚すのが仕事。お母さんはきれいな服に着替えさせるのが仕事。神様は、まるでお母さんのような方です。一日中一生懸命生きているうちに、たくさんの罪が私たちを汚してしまいます。赦して下さい、神様、神様は私たちを赦して、きれいな義の衣を着させて下さいます。  翌日、同じく一生懸命生きているうちに、また同じ罪を犯してしまいます。ごめんなさい神様。  神様が赦してくださるように、私たちも自分自身を赦す必要があります。いつまでも自分を赦せずにいるのは正しくありません。自分を赦す人が人も赦せるのです。 「互いに忍び合い、責めることがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(コロサイ3:13)

聖書のことば 3月16日

2014-03-15
「私の命令を守って、生きよ」(箴言4:4)  6歳になった静香さんは、お父さんと一緒に初めてスキーに行きました。スキーをはいた静香さんにお父さんは言いました。 「スキーで一番大事なことは転ぶことだ。うまく転ぶことができれば安全だ。スピードが出ていてもねお尻からドスンと雪の上に落ちるようにすれば痛くないからね」  お父さんは、滑り出したと思ったら、すぐにスキーの右側にしりもちをつきました。静香さんも真似をしてやってみました。ちょっと痛かったけれど、うまく転ぶことができました。何度か練習して自信がつくと、楽しくなってきました。すべる距離も長くなり、ゲレンデを上る高さも高くなって、すべるスピードもだんだん早速くなりました。ついに静香さんは、ゲレンデの一番上からすべることにしました。がお父さんは心配して言いました。 「気をつけろ。あまり下まで行くと、崖がある。落ちたら大けがだ。途中で止まるんだぞ」「ウン、わかったよ、お父さん」  静香さんはまっすぐ滑り出しました。ヒューヒューと耳元で風の音が聞こえます。どんどんスピードが上がって風の音はゴーコーに変わりました。 「大丈夫かな?かなり速いぞ」と思った時、目の前に崖が追ってきました。「ああ、しまった、どうしょう…。そうだ、しりもちをつくんだった。よし、今だ」  静香さんは思い切ってしりもちをつきました。ドン、ドンドーン、体は一回転して止まり、顔は雪だらけ。でも、ケガもなく無事に止まれました。あわててやってきたお父さんに、静香さんはニコニコ笑って手を振りました。

聖書のことば 3月9日

2014-03-08
「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではないとはどういう意味か、行って学びなさい」(マタイ9:13)  イエス様は十字架におかかりになることによって、私たちの罪の贖いをなされました。その痛みは私たちの心の痛みでもありました。「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ53:4)。イエス様が痛んでくださったことによって、私たちの心の傷は癒されたのです。イエス様は十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と叫ばれました。イエス様は私たちのために、私たちの代わりに「ごめんなさい」と父なる神様に、執り成してくださっています。  反発してくる人、愚痴、不平、不満、疑い、嫉妬、実はこれらは、「もっと私を愛してほしい、そして癒してほしい」と心の叫びを訴えている人々です。  天の国の拡大とは、愛の交わりの拡大、愛の交わりとはお互いに心の傷を配慮し、そのことを痛み、イエス様がされたように憐みを持って接することです。

聖書のことば 3月2日

2014-03-01
「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい」 (ローマ12:6-8)  自分に向いていないこと、どうしてもいやなこと、自分の仕事ではないことばかりやっていると、自分自身を見失ってしまいます。物事があまり上手にできないので、劣等感を強めてしまうかもしれません。  今日の聖句は、自分を取り戻すのに役立つことを教えています。神様は、私たちに何かの長所、得意とすること、特別な能力を与えてくださっています。それを見つけて伸ばすことが大切です。  私たちはどんなことをするのが得意でしょうか。何をする時、一番自然でいられるでしょうか。成果をあげて、本当にうれしいと思うものは、どの分野の事柄でしょうか。また、人は私たちの働きの中のどの分野で喜んでくださるのでしょうか。このようなことを考えていると、与えられた賜物や天職が見えてくると思います。

聖書のことば 2月23日

2014-02-22
 皆さんは、色々な所で勉強する時に、「もうわからない」とあきらめて、投げやりになっていることはありませんか。本には問題の解き方も書いてあるし、誰かが「こうすればできますよ」と教えてくれたりもします。実は「わからない」のではなくて「わかろうとしない」、「できない」のではなくて「やろうとしていない」のではないでしょうか?  世界の中の5歳〜10歳の子供のうち5人に1人は、家計を助けるために働かなければいけません。また、紛争や災害で命が脅かされている子供もいます。インド、ラオス。ミャンマーでは約半分の子供しか卒業できません。みんな毎日の生活で、精一杯なのです。形に見えない知識や知恵をつけることに、なかなかお金や時間を費やすことができないのです。  聖書の中にタラントの話が出てきます。(マタイ25:14ー30) 人間は、生まれる場所を選ぶことはできません。あなたが生活環境も含めて、1人1人にタラントが与えられています。今出来ることを、最大限努力してみませんか。自分のタラントを最大限活用した人に、神様は「よくやった」とほめて下さいます。

聖書のことば 2月16日

2014-02-15
 小学校に入学した静香さんは、ドキドキしなかせらも毎日学校で楽しいことがいっぱいでした。でも、たった一つだけ嫌なことがありました。それは何と給食の時間だったのです。みんなに比べて自分がそんなに食べるのが遅いとは、それまではわかりませんでした。静香さんはお母さんが働いていたので、おばあちゃんに育てられ、それまでゆっくり食べていたのです。また「残さずに食べなければいけません」というクラスの決まりもありました。静香さんはみんなが食べ終わって昼休みになり、遊びに行ってしまっても、一人で教室に残って給食を食べ終えなければなりませんでした。給食を考えると、「学校に行きたくないなぁ」と思ったほどです。  いつからか、一人で食べている静香さんの隣に、みほさんがいてくれるようになりました。静香さんはみほさんがいてくれるだけで、元気が出てきて、残したいものを頑張って食べようと思うようになりました。みほさんは、静香さんが食べ終えるまでずっと隣に座っていてくれました。静香さんとみほさんは今でも仲良しです。  神様は目には見えないけれど、いつも私たちの隣にいてくださいます。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)  困った時、悲しくなった時、寂しい時……イエス様はずっと私たちと一緒にいて、私たちと同じように悲しみや寂しさを味わって下さるのです。私たちをわかって下さるイエス様を忘れないように、この聖書の言葉を1日唱えながら過ごしましょう。

聖書のことば 2月9日

2014-02-08
 ある日曜日、お母さんと静香さんが一緒に夕ご飯の支度をしている時のことでした。焼きそばを炒めながらお母さんが「あ〜ぁ、お山のおばあちゃんに会いたいなぁ」と言いました。お山に1人で住んでいた静香さんのおばあちゃんは、昨年病気で亡くなったのです。静香さんも、おばあちゃんにはとても可愛がってもらったのでよく覚えています。「でもお母さん、お山のおばあちゃんはもう死んじゃったよ」と静香さんが困った顔をして言いました。「そうなのよね。でもお母さんは今でも時々とっても会いたくなるのよ」と寂しそうに言うお母さん。すると静香さんは、お母さんの肩を優しくポンッとたたいて言いました。「お楽しみ、天国に行った時のお楽しみが増えるってことじゃん。僕も天国に行くのが本当に楽しみだなぁ」お母さんも静香さんの言葉に心が暖かくなり、それをきっかけに2人は楽しい天国の話をたくさんしながら、夕食の支度を続けました。  聖書ではイエス様が必ず私たちを迎えに来てくださるとお約束して下さっています。  テサロニケ4章16節には、死んだ人と生きている人が共にイエス様と会えると書いてあります。みなさんが大好きな人たちと一緒にイエス様に会えるのです。この素晴らしいお約束を今日もみんなで感謝しましょう。

聖書のことば 2月2日

2014-02-01
「主に祈り、主よ、彼の目を開いて見えるようにしてくださいと願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」(列王記下6:17)  私たちは、日頃神様から目を離してしまいますと、ちょっとしたことで右往左往することがよくあります。大事なことは、いつも私たちを愛してくださっている神様がついてくださることを忘れないことです。  先日、知り合いが目の手術をしました。0、2くらいしかなかった視力が1、5に回復したそうです。彼は、「周りの世界が急に明るくなった。こんなことだったらもっと早く手術をすればよかった」と言いました。私たちも天国に召されて「こんなことだったら、もっと多くの人を教会に導けば良かった」と言うことがないように、今日、たった今、大事な人にイエス様の救いを届けましょう。

聖書のことば 1月26日

2014-01-25
「この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を贖ういけにえです」(1ヨハネ2:2)  あるクリスチャン女性の短い文章を読んだことがあります。彼女は、食事のあと台所で食器を洗いながら、窓の外を歩く人を見て、心の中でこう言っていました。「あそこに神から離れている人が歩いている。」そこで、彼女はハッと自分の考えが狭いことに気がつきました。もっと別の、そしてもっと深い人の見方がありました。彼女は心の中で言い直しました。「あそこを神が愛しておられる人が歩いている」  彼女がこのように言い直したのは、今日の聖句を思い出したからでした。クリスチャンは、イエス様の救いを信じた人々ですが、まだイエス様を知らない方々がたくさんおられます。この方々のためにもキリストは十字架にかかられたのでした。  彼女のように私たちも、このみ言葉を思い出して、人に対して心の中で言葉を変えたいと思います。 「私も神様から愛されています。そしてあの○○さんも神様から愛されています。」言葉が変われば、人を見る目も変わります。人を見る目が変わると、愛が深まります。愛が深まると、私たちの態度も変わってくるのではないでしょうか。

聖書のことば 1月19日

2014-01-18
「終りに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐み深く、謙虚になりなさい。悪を持って悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(1ペトロ3:8)  井上さんという24歳の看護師は、この日体験したことを次のように証しされました。「私は子供の頃に、教会に行って失望しました。そこにいるクリスチャンたちにがっかりしたのです。人前では信仰深そうに見せ、裏では人の悪口ばかりを言っていました。私は絶対にあの人たちの仲間になるまいと決めたのです。私が欲しかったのは、真実と誠実さだったのです。私はここで、そういう大勢のクリスチャンに出会えました。そして、私もこのような人たちの仲間になりたいと思いました。」そして井上さんは、自分を信仰に導いてくれたキリスト教会のクリスチャンたちに対する感謝の心を込めて、こんな詩を作りました。 「あなたは知っていますか」 あなたは知っていますか。私は、あなたによってキリストを知ったことを。 あなたは知っていますか。あなたが私に優しくしてくれた時、キリストも優しい方だと知りました。 あなたは知っていますか。あなたが、私の話に真剣に耳を傾けてくれた時、キリストも私に関心を払って下さる方だと知りました。 あなたは知っていますか。あなたが自分の過去の失敗を正直に話すのを聞いた時、キリストは私の失敗をさげすまれる方ではないと知りました。 あなたは知っていますか。あなたが私に心を配ってくださる方だと知りました。 あなたは知っていますか。あなたの言葉を通して、私はキリストの笑顔を知りました。 あなたは知っていますか。私はあなたによって、キリストを知ったことを。

聖書のことば 1月12日

2014-01-10
「わたしは常に主をほめまつる。その賛美は私の口に絶えない」 (詩編34:1)  都内の教会で学んでおりました時、聖歌隊のメンバーと一緒に神様をほめたたえる機会を通して、自分自身の信仰生活に大きな励ましと慰め、希望が与えられましたことを心より感謝いたしております。私は、聖歌隊での賛美を通して、改めて賛美の喜びと力を学ばせていただきました。また歌詞を暗譜することは、歌詞の意味をよく理解して神様に賛美を捧げるためにとても良い訓練となりました。聖歌隊での賛美をきっかけとして、私は自分自身の信仰生活と賛美について考えるようになりました。賛美は、私たちの信仰生活を充実したものとする大きな力を持っています。賛美の生活を通して、神様の偉大な力、深い知恵、永遠の愛を心からほめたたえるとき、はじめて私たちの魂は満足するのです。  日々、神様を賛美する習慣を養っていきたいものです。

聖書のことば 12月29日

2013-12-28
 いつもはとってもお寝坊さんの静香さんが、絶対に早起きする日があります。それは日曜日。日曜日の朝になるとお母さんがラジオをつけてくれるからです。ラジオから「井上のおじさんです」というやさしい声が聞こえてくると、パチッと目がさめるのです。静香さんは、井上のおじさんのお話が大好きだったのです。少年ダビデにゴリアテが倒される時の「ウオー」という叫び声にぞくぞくしたり、サマリア人がケガをした人を助けると、心が温かくなったりしました。  静香さんのお気に入りのお話は「信子さんのおつかい」です。お母さんに頼まれておつかいに行った5歳の信子さんが、おつかいの帰りに野良犬に囲まれてしまった時、イエス様に「助けて下さい」とお祈りしたら、犬はすっかりおとなしくなり、無事に家に帰ることができたお話です。静香さんは、困った時にはこのお話の信子さんのことを思い出して、すぐにイエス様にお祈りしました。そして、「私にはイエス様がついているから、何が起こっても大丈夫」と信じる子になりました。  日曜日に早起きして、井上のおじさんから聖書のお話をたくさん聞いた静香さんは、イエス様を心から愛する人になりました。いつも枕元でラジオをつけてくれたお母さんに感謝しています。 「私は朝早く起き出して呼ばわります。私はみ言葉によって望みをいだくのです」 (詩編119編147節  口語訳)

聖書のことば 12月22日

2013-12-21
 今日はクリスマス礼拝、街はキリスト教とは関係なしに、クリスマスのお祝いをしていて、教会以上にはるかにすごいイルミネーションで飾って、きらびやかで、大騒ぎしています。でも、今日見ていきたいのは、世界で一番初めのクリスマスです。イエス様をお腹に宿していたマリアとその夫ヨセフはナザレからベツレヘムに移動しなくてはならなくなりました。高速道路を車で移動するなら2時間くらいでしょうが、歩いて移動したらものすごく時間がかかりそうです。そうした長い距離を移動した先で、マリアはイエス様を産みました。さてねこの救い主誕生の知らせを最初に聞いたのは、羊飼いたちでした。野宿して、夜中も羊の番をするのは相当過酷な仕事です。みんなはきっと多少ハードな仕事であっても、夜は暖かい布団で寝られる仕事のほうを好むのではないでしょうか。加えて羊飼いは、イスラエル人にとって大切な安息日を守ることはできませんでした。何しろ、羊の牧草を探し求めて、あちこち移動し続けなければならなかったからです。  そのため、イスラエル人の人々から忌み嫌われ、最も救われるのに遠い人たちとして見られていました。そんな彼らに救い主誕生の第一報が届いたのです。  羊飼いに救い誕生の第一報が届いたのは、神様の救いは最も過酷な中にある人々、最も忌み嫌われ、救いから遠いと見られている人々にまず届くことを示すためです。神が人間になりました。それは、「あなたは1人ではないよ。私が一緒にいる。その苦しみ、私もわかるよ。つらいよね。苦しいよね。でも、私がいるから大丈夫。この苦しみも良かった、意味があったと思える日がきっと来る。私は命を捨ててまで、あなたを愛してそのことを保障しているのだから、何も恐れる必要はないよ」と苦しみの中にある人にまっ先に伝えるためです。羊飼いたちはそんな神様からのメッセージを聞いて、イエス様に会いに行き、賛美しました。  羊飼いたちはキリストに出会い、礼拝しました。世間はどんなに冷たくても、現実の仕事はどれだけ苦しくても、無駄なものは何もなく、すべてに意味があり、神に見捨てられておらず、最善へと導かれていることに出会ったのです。彼らの心に最高のイルミネーションが灯りました。電気で作ったイルミネーション以上に大切なのは、心に灯る愛のイルミネーションです。この愛のイルミネーションはあなたのところにも届いている…それがクリスマスなのです。

聖書のことば 12月15日

2013-12-14
 キリスト教会でクリスマス会があり、終わっても帰ろうとしない子がいました。先生が話しかけると、彼は言いました。「先生、ここでもらったお菓子はすぐなくなってしまう。僕はなくならないものが欲しい。」と。そこで先生は、神がイエス・キリストを通して下さる永遠の命について彼に語りました。少年は喜んで受け取り、救い主キリストにある永遠の命を得たのです。その少年こそ、新潟出身の木村清松という著名な説教者となった人です。  後に、アメリカでナイアグラの滝に案内され、「どうだ、すごいだろう」と言われた彼は、「これは天の父の所有だ」と言いました。そこで人々は、「ナイアグラの滝の所有者の息子来る」と、驚きのうちにその説教者を紹介したと伝えられています。  クリスマスは心わくわく送るプレゼント、贈られるプレゼントがあるでしょう。その始まりは、父なる神様が私たち一人一人に無限の愛をもって贈ってくださった、救い主イエス・キリストです。そして、イエス・キリストを信じて神の子とされた者たちはみな、キリストと相続人だというのです。  資産家の子供だからというだけで、莫大な財産が転がり込んできた人のことを聞きますが、私たちはそれどころではありません。神のものを相続するというのです。キリストの心を持つ時、その人はすべてのものを持つのです。偉大なクリスマスプレゼントを、あなたはもう受け取られましたか?

聖書のことば 12月8日

2013-12-07
 2013年のクリスマス心よりおめでとうございます。今年は12月22日(日)が教会のクリスマス礼拝です。「私は本当のクリスマス」を迎えるようになって、今年で25回目になります。何年たっても、初めて本当のクリスマスをお祝いした時、25年前のクリスマスを、新鮮な感動を持って思い起こします。それまでは、いつもニセモノのクリスマスでした。友人とにぎやかに騒いだり、けれども、心の中は疑問でいっばいでした。「人はどこから来て、何のために生き、死ぬとどうなるのか?」「法律とか道徳とかあるけど、本当に正しいことって何?」と。  しかしキリスト教の礼拝に初めて出席し、み言葉の光によって深く罪を自覚し、悔い改めました。自分が正しいと思ってやってきたきたすべてのことが、実は人を傷つけ、自分を傷つけ、何より神様を悲しませていたことがわかったのです。そして、その私の罪の罰を負って、私の代わりに、十字架で命を投げ出してまで愛してくださるイエス・キリストを仰いで、衝撃を受けました。「このお方に従っていけば正しく歩める」と、上からの光の中で確信しました。  キリストのみが、神の義を満足させるお方。ここにのみ本当に正しいことがあると知り、満たされた本当のクリスマスを経験したのです。

聖書のことば 12月1日

2013-11-30
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」 (マタイ7:1)  人は、自分の罪に気がつかないものです。ダビデが預言者ナタンから「それは、あなただ」と、罪の指摘をされるまで回心しなかったように。  私も子供を叱るのですが、しかし子供たちは見ています。「じゃー、お父さんはいいの?」言葉に詰まります。  人間は、人のすることの欠点を見つけ出すのが得意です。自分のことは棚に上げて、また自分のことになると、「これぐらいならいいだろう。たまたまだから」と、勝手な解釈をするのです。  イエス様が7の70倍するまで赦しなさいと言われた時、赦す忍耐を求められただけでなく、自分こそ裁く資格のない者であることに気づきなさいと言われたのでしょう。相手のことを怒る前に一呼吸おいて、自分を振り返ることを生活の中で用いたいものです。 « Older Entries